梅田 歩夢
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ヒストリー

出身地

鹿児島県姶良市

幼少期の暮らし、体験

生まれ育ち

1998年9月14日 鹿児島県鹿児島市に生まれる。

育ちは、鹿児島県姶良市。

産まれる前から、長渕剛の曲を聴かされており家族全員、大ファンである。

初ライブは2歳。以降ライブに多数参戦。

保育園は川﨑宗則選手と同じ。池島保育園。


野球人生

小学時代

姶良町立帖佐小学校入学

小学2年から、硬式野球のクラブチーム『 ガッツ鹿児島』で野球を始め、

小4からセカンドで出場。

小5からキャプテン。

ピッチャーとショートをしていた。

今のご時世ではありえないようなとても厳しい指導者だったため、根性がつき、ガッツ精神を叩き込まれる。また、緻密なサインプレーの野球を覚えた。

小6時には、9人で出場した福岡大会で優勝。

県大会準優勝1回。

学校では小5、6の担任の先生から後の人生に繋がるたくさんの影響を受けた。

中学・高校時代

中学時代

姶良市立帖佐中学校入学

数ある中学硬式野球チームの中から色々なチームの練習体験に参加し、『 薩摩隼人ボーイズ(旧鹿児島メッツ)』に入部。

超少人数でありながら、監督、コーチの自由でマンツーマンの指導方針で、まるで野球塾のようなチームであることに感動し、メッツで野球をすると決めた。

日に日に成長していく自分を感じるのが楽しく、本当の意味で野球を好きになれた。

ポジションは、ショートとピッチャー。1番か3番を打っていた。

また、チームの先輩の影響で、イチロー選手を始めとするプロのトップレベルの選手が行っている、初動負荷トレーニングを始める。当時、九州で初動負荷トレーニングができるのは、鹿児島だけであった。

柔軟でしなやかな筋肉と可動域を手に入れる。

中2秋からキャプテン。

中3時春に、県大会準優勝し、西日本選抜大会に出場した。

中3秋に、鹿児島県選抜チームに選出。

選抜チームでは、2019年西武ライオンズからドラフト2位指名された、浜屋将太(大隅ボーイズ→樟南高→三菱日立パワーシステムズ→西武ライオンズ)と共にプレーした。


高校時代

高校は春夏25回の甲子園出場している鹿児島御三家の古豪・鹿児島市立鹿児島商業高校 情報処理科に野球推薦入学。

全国唯一の公立商業系の男子校である。

父も鹿商硬式野球部のOBであり、男子校ということから、県内トップクラスの上下関係の厳しさであると聞いていたが、予想を遥かに上回る厳しさに圧倒され、1年時にはイップスも経験した。

118代目鹿商野球部。

高1夏新人戦からベンチ入り。

主にセカンド、ショート。

高2秋からセカンドでレギュラーとして試合に出る。

高校ではチーム1バントに自信があった。

在学中はベスト16止まりだったが、鹿商時代は食事しながら寝てしまう程、朝から晩まで野球漬けの日々を送り、とにかく走りに走りまくった。グランド外での上下関係にも耐え、目配り、気配り、先見力、特に忍耐力が身につき、精神修行であった。

学校生活では、男子校ならではの、エビ反りバリ声校歌や、バリ声挨拶、食堂売店ダッシュ、勝負事はガチなど男臭さ満点だった。

学業では、担任の先生が簿記の神様であったため、全商簿記完全一級、電卓早打ち検定1級、情報処理検定2級、プログラミング2級、タイピング2級など、様々な資格を取得した。またクラス、学科内では3年間常にトップクラスの成績を維持。

とにかく、男の世界でたくましい3年間を送った。

大学・専門学校時代

大学時代

公募推薦にて、西南学院大学 商学部商学科に入学。

簿記のおかげで西南に来れた。

西南大では簿記の神様と呼ばれ、試験前には多くの友達から「簿記を教えて」とLINEが殺到する。

3年間男子校生活を送った自分からすると、西南大は畑違い過ぎて女子がいることに慣れるのに苦労した。

硬式野球部に入部。

高3になる前に、地元鹿児島県姶良市でのキャンプを見に行き、西南大で野球をしたい!と強く思ったことがきっかけ。

1年次 東監督の野球、人生論、創造力に感銘を受ける。

2年次 58年振りの秋季リーグ戦優勝。

            中学時代から続けている初動負荷トレーニングを勉強し直し、突き詰めている。初動負荷理論の勉強をしているうちに、体の仕組み、動作学に興味を持つ。

3年次 新チームから、選手を引退し、プロジェクトリーダーとしてチームに関わる。4スタンス理論を勉強し、動作分析に力を入れている。身体に興味を持つ。

東監督の夢、想い、自分の夢、想いを実現するために、毎日、熱い心でワクワクしながら野球に取り組んでいる。