だい
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

長野県下伊那郡

幼少期の暮らし、体験

長野の野山を自在に駆け回る野生児

私は2つのアルプスの谷間、長野県下伊那郡の生まれです。ゲーム禁止の家庭だった事もあり、毎日友達を外に連れ出して何をしようか考えてわくわくしていました。人を楽しませるが好きなので、事前に虫や果実の採集場所、基地が作れそうな場所を見つけ友人たちへ紹介していました。そのせいで付いた二つ名は「野生レベル100」。今振り返ると、楽しみは自分で見つけれるモノで、共有することで深まり、広がるという事を日々体験していたのだと思います。

また、父が美術の教師だった事もあり、自分でモノを作る事が好きでした。絵を描いたり、立体物を作ったりしていました。ゲームは禁止でお小遣いもなかったですが、そういう事に必要な材料は、申請すれば何でも調達して来てくれました。




中学・高校時代

長野県飯田高等学校 2010年卒業
  1. 活発なインドア派

中学校へ上がりバスケ部に入った事で部活漬けの毎日でした。今でも持久力はあると勘違いしてしまう程、走り込みをしていました。高校では軽音楽部でギターを担当、テクニックよりも音作りにこだわるタイプでした。メンバーが作るオリジナル曲で大会に出るなど、自分とは違う創作をする仲間と過ごせ刺激的な学校生活を送っていました。

プライベートでは、インドアを極めていました。実は漫画家を目指し、しこしこイラストや漫画を描き貯めていました。家庭の方針で、アニメ・ゲームが禁止だった為、溢れるオタク心の全てを創作に注いでいました。内向的な性質もあり、こつこつと積み重ねて行ける創作は明日の活力を充電できるものでした。内容はThe中二病で思い出すだけで恥ずかしいです。高校では同じの志の友人と出会い、作品を見せ合う日々を過ごしました。創作は自分の内をさらけ出す側面があり、そうやって腹を割って付き合えた彼とは今でも共に絵を描く仲です。

大学・専門学校時代

駒澤大学 2014年卒業

あるいは学生という名のオタク

大学は東京の私立へ進学しました。第一希望を落ち暗澹たる思いで入学式に出た事を覚えています。しかし、ずっと落ち込んでなどいませんでした。長野を出て夢の一人暮らし、私は日々創作活動に明け暮れました。講義が終わると家に帰って昼から夜まで友人とお題を出し合い絵を描いて、休日は秋葉原や同人誌即売会へ行くという濃厚な日々でした。東京のという地の利を得て、SNSで同好の士とも出会え、加速度的に趣味深めました。

ファッションフリーマガジンの立ち上げ

大学1年時の冬休みにインターカレッジ のファッションフリーマガジンを立ち上げました。すべての学生に「”新しい自己表現の発見”」をテーマに発足。全員経験・知識0からのスタート、営業・編集・広報、全てに携わり東奔西走しました。当時Pandoの様なサービスもなく足で稼いでいました。特に資金調達に難航し、頭を悩ませる日々でしたが、学生をユーザーとしている企業を中心に企画書を作成し、交渉を行う事で資金調達を達成することができました。特集では服飾学校に通う学生スタイリストらによるコーディネートを掲載しました。スタイリストの思いを読者へよりよく伝えるため、傾聴を心掛けアイデアを形にし、互いに満足の行く紙面ができました。初号を都内主要大学にて2,000部、2号は1万部と増刷でき、予想以上の反響を頂き、自分らの思いを他者へ伝え共感を得ることの難しさと面白さが味わえました。

職歴

建設業へ向けた電線・ケーブルを取り扱う独立系専門商社に入社。営業担当として製品提案けでなく、クライアント毎に情報・商品・物流をアレンジし提案を心掛けています。社内でも私のみ発電所、変電所といったプラントを担当し、日々社会インフラの基盤となる電力網を仕入先様、クライアント様と共創しています。

現職は「自己表現者」として働く事ができると考え入社しました。商社は介在価値を生み出す事で存在しています。企画、提案をする中で、ある仕入先様、クライアント様のニーズに応える事は、私自身がこの世に一つしか無い提案を生み出す事です。そうした意味で「自己表現」ができる商社は非常に魅力的でやりがいのある仕事です。

3年目より前任者の退職に伴い、大手クライアント様を引き継ぎ担当させて頂いております。数百人、様々な立場の方々とやり取りするため、それぞれの方のニーズを汲み取り、全員が納得頂ける提案を常に考え行っています。商社の営業として仕入先様、クライアント様と連携し共に利益、価値を創造するパートナーになり、課題解決・提案が行える事にやりがいを感じています。