繊維業を営む父を持ち、当時は大きな一軒家に生まれ育つ。母は私の才能を見極めるため「英会話」「ピアノ」「絵画教室」「野球」「ボーイスカウト」などいろいろ体験させてくれたが、興味を示したのは「絵画」と「ボーイスカウト」だった。絵画は社会人になってから休止しているが、定年後はまた描き始めたい。小学4年から大学4年までボーイスカウト活動は続き、春の甲子園でプラカードを持ったり、ジャンボリー大会では現在の天皇陛下のガードなど担った。
親戚付き合いが活発な家族だったので、毎年のように両親の実家へ帰ったり、親戚が泊りに来るなど、幼少期には可愛がられて育った。近所の人たちからは恐らく「ボンボン」という目で見られて丁重に接してもらえていたと思うが、ご近所からは若干生意気でわがままな子供に映っていたと思う。小学校では、自分が中心に回っていると思っていたし、お山の大将であるような錯覚をしていたと思う。
中学は一学年23クラスという超マンモス校だったこともあり、交友関係が一気に変わった。個性豊かな人、賢い人、運動神経抜群の人がたくさんいて、自己中心だったプライドが揺さぶられた。最終学年では、いわゆる不良少年が多いクラスに入り、授業拒否や無断欠席する同級生がいて、かなり雰囲気は悪かった。その時、学級委員長を任されていたので不良少年たちとの接触もあったが、彼らは意外に感受性豊かで正直な人も多いことに気付き、嫌いになるよりも興味を持つようになった。
高校の校風は女性が男性よりもしっかりしていて、競争の少ない、のんびりした校風を持っていた。ゆえに自分の考えがないと流されやすい環境で、周囲には自分の考え方や信念を持っている同級生が多かった。それまで受け身で何となく生きてきた自分自身の居場所や在り方をあらためて考え始める時期となった。一方で、最終学年になった時に、父の会社が倒産し、大きな家から借家に引っ越し、私生活の変化が起きてきたのもこの頃。
高校卒業後は大学受験に失敗し、倒産した父の会社の立て直しのために就職するか浪人して進学するか決めかねていた。予備校には通わず、家事を手伝いつつ、夜間大学を受けるために受験勉強は続けた。結果として滑り止めの私立大学と夜間の国立大学に受かり夜間大学に行くつもりだったが、教師をしていた祖父が昼間の大学を強く勧めてきたらしく私立大学へ進学した。
大学時代は、家事を手伝いつつ授業料をアルバイトで稼ぎながら過ごした。ただ3年生の冬に父の会社の資金繰りが再び悪化、事業閉鎖することになり、4年生は家族の生活を支えるためにアルバイト一色の生活となる。さらにこの時期は、借金取りが夜な夜な家に押しかけて来たり、家族に嫌がらせを働くなど社会の裏側を垣間見た最悪の時期だった。しかし彼らも゛嫌がらせすることが仕事"だと分かった時に少し落ち着いて対応できるようになった。この経験を通して少々の事では動じなくなったような気がする。その時に得たアルバイト仲間には、同様の苦労人がいたりして現在まで続く頼もしい良き友人となっている。
1986年 繊維系企業に入社。東京配属になりアパレル会社の営業担当。
1992年 バブル経済崩壊で取引先も倒産し、仲良くしていただいて
いた人事部長に招かれ人事部へ異動。採用活動、社員教育、
人事考課、人員計画等を担当する。
2003年 人事部内に採用・教育課が新設され、マネージャーとなる。
この頃から、全国の私立大学での「キャリア講義」や「就職
セミナー」を任されるようになる。
2017年 面接実績2万人を超え、その経験を活かし「キャリア・コン
サルタント」を取得。当時、活用していた「内田クレペリン
精神検査基礎技術員」資格も取得。
2018年 秘書部へ異動。職場環境が激変し仕事もうまくいかず、
ストレスが多くなる。自己点検も兼ねて「メンタルヘルス・
マネジメント第Ⅱ種」を取得。
~現在に至る~