松永 敏宏
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

大阪府羽曳野市

幼少期の暮らし、体験

碓井という田舎町で育ちました。

幼稚園に入るまでは、従妹のお兄ちゃん達と一緒に遊んでいましたので、同学年の子供達よりも鍛えられ、成長が早かったような気がしています。

川で泳いだり、神社の囲われた壁の上を歩いたり、木に登ったり、とても活動的な子供だったと思います。

藤井寺南小学校に入ってからは、本来4年生からしか入れないソフトボールクラブに特別に2年生から入れてもらいました。その後、4年生からは少年野球の方に移って、6年時には当時、近鉄バファローズの本拠地である藤井寺球場で藤井寺市の大会で優勝しました。その時のポジションはサードで3番を打っていました。

中学・高校時代

中学でも野球を続けたいと思っていましたが、藤井寺中学の野球部の練習があまりに長くつまらないことが多かったので、先輩が多くいたバスケット部に所属しました。が、あまり強くなく、いつも2回戦で負けていました。

そんな中、中学3年生で入学試験対策として部活が終了した際、同級生が持ってきたラグビーボールに触れて、とても感動して高校では強いチームでラグビーをしたいと思っていたところ、天王寺高校が近畿大会に出場したという記事を見て、天王寺高校に行くことになりました。

でも、本来は学区制で天王寺高校を受験することはかなわないはずだったのですが、たまたま母親が大阪市の市営団地の抽選で当選したので、東住吉区鷹合に引っ越しして、越境という形で天王寺高校に入学できたのでした。

そこで始めたラグビーがとても好きで、勉強せずに3年間、夢中で取り組んだところ、3年時には高校ジャパンに選ばれてニュージーランドに遠征させていただきました。

大学・専門学校時代

高校時代、あまりにラグビーに打ち込んだせいで、勉強が全くできず、1年浪人しましたが、その1年間は、とにかく勉強しかしないと決めて頑張ったお陰で、受験した京都大学農学部、慶應義塾大学理工学部、商学部、同志社大学電子工学科、全てに合格して、周りの人たちは皆、京大に行くことを勧めましたが、母親の希望で慶大商学部へ行き、体育会蹴球部(ラグビー部)に入部して4年目には、主将を務め、29年ぶりに関東大学対抗戦で全勝優勝して、全国大学選手権では3連覇のかかった故平尾誠二率いる同志社大学と決勝戦を戦い、終了間際に私が投げたパスをレフリーにスローフォワードを取られ、6-10で惜敗しました。が、慶応の卒業式では、日本一のクラブにしか贈られない小泉体育賞を皆の前で当時の石川塾長から頂戴した際の拍手の大きさは、今でも忘れられません。