蒲田 和芳
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ヒストリー

出身地

富山県高岡市

大学・専門学校時代

 東京大学ではアメリカンフットボ-ル部の活動が中心でした。本当のところは、高校の先輩が大活躍していた京大ギャングスターズに入りたかったのですが、工学部原子力工学科の受験の壁を超えられず断念。東大の合格発表の際に声をかけてもらい、その後とんかつをご馳走になっていつの間にか入部しました。

 1年生のときに、上級生の練習に初めて参加した日に、主将との1 on 1で大腿四頭筋断裂を受傷。スポーツ活動歴で初めて1ヶ月間の負傷離脱を経験しました。2年生のときに、同級生の宮田剛太郎君が試合中の頭部外傷によって他界したことをきっかけに、スポーツ医学を志すことになりました。3年生では、4年生のリーダーシップの下で念願の一部昇格を果たしました。4年生では留学準備とフットボールの両立に悩みつつ、前半は留学準備のための単位取得、夏以降フットボールに復帰するという中途半端な生活となってしまいました。大学時代の唯一の後悔は、この4年生の前半をフットボールに没頭できなかったことです。

 大学卒業後は、大学院と専門学校(夜間部理学療法学科)に入学し、学位取得と理学療法士免許取得を同時進行で進めることになりました。午前中は大学院、午後はフットボールの練習か日本体育協会スポーツ診療所での研修を経験し、夜は専門学校で学びました。そして、23時に帰宅すると、大学院のゼミの準備、スポーツ診療所の課題、専門学校の試験勉強などを行う生活を4年間続けました。フットボールだけでなく、生活でも4クォーター制でしたね。

 故宮田君の分まで生きようと決意したのが20歳のとき。それから1995年4月に理学療法士免許を取得、1998年3月に学術博士の学位を取得するまで、全力で駆け抜けたと思います。この間、人生の方向性を決めていく上での恩師と出会えたことが最大の財産だと思っています。

  • 「理学療法士」を勧めてくださった鹿倉二郎氏(当時ソニー企業)
  • フットボール部助監督で,チームの安全対策をリードしていただいた川原貴氏(東京大学教養学部→JISS)
  • 「スポーツ理学療法士」のいろはを教えてくださった川野哲英氏(当時スポーツ診療所)
  • フットボールのチームドクターの黒澤尚氏(東京逓信病院→順天堂大学整形外科)
  • 東大教育学部の体育学科教授として導いてくださった宮下充正氏(当時東大教育学部)
  • アスレティックトレーナーについて教えてくださったJim Whitesel氏(シアトル・シーホークス ヘッドトレーナー)
  • 大学院博士課程の指導教官でもあり,スポーツ整形外科への入り口に導いてくださった中嶋寛之氏(東京大学教養学部→日本体育大学)
  • 大学院博士課程の指導教官であった福林徹氏(東京大学教養学部→早稲田大学→有明医療大学)

これらの恩師には言葉では言い尽くせないほど深く感謝しております。

職歴

●横浜市スポーツ医科学センター(1998-2003)

 大学院卒業と当時に開設された横浜市スポーツ医科学センターに入職させていただきました。研修以外に職歴のない私でしたが,故高澤晴夫氏(同センター長)に理学療法室長として迎え入れて頂きました。三木英之氏(同センター→とつか西口整形外科)に信頼していただき,小さな失敗も無数にありましたが,思う存分臨床に没頭することができました。

 1999年のWCPT(世界理学療法士学会)でシンポジウムでご一緒したMark DeCarlo氏(Team Rehabilitation)の講義内容に触発されました。Dr. Shelbouneの手術と術後リハビリテ-ションを1週間見学して,完全伸展の獲得の重要性を痛感しました。完全な可動域とアライメントの回復(もしくは修正)を最優先とする考え方は「症候群としての捉え方」というタイトルでスポーツメディシン誌に連載させていただきました。当時から編集長であった故清家輝文氏には,20歳のころから約30年間に渡りお世話になり,いろいろな執筆のチャンスをいただきました。2019年の12月に他界されてしまい,残念でなりません。

 この30歳のときに考えていた治療方針は少しずつ整理され,2008年にリアライン・コンセプトとしてまとめることができました。そう考えると,20代で得られる経験,自由な発想,小さな失敗の積み重ね,そしてそれをまとめる機会というのは,ライフワークを形作るものになっています。20代の若者に失敗するチャンスを与えることを強く意識して,後輩たちの指導を行いたいと思います。


●アメリカ留学(2003-2005)

 2003年6月から2006年3月までアメリカでの研究留学を経験しました。アメリカには一人旅を含めて何度も行っていたので,いろいろと小さなトラブルはあっても,楽観的に受け止めることができたと思います。この時期,障害はいろいろあっても,万難を排して一歩前進する「突破力」を身につけられたと思います。

 留学中は,コロラド大学のJoel Bach氏,フロリダ大学のScott Banks氏にたいへんお世話になりました。特にScottには,帰国後にも関節の動態解析研究を続けることができるよう,研究の分析技術を教えていただき,またソフトウエアを提供してもらい,2006年からの研究に大きな支えとなりました。


●広島国際大学(2006-2019)

 2006年4月に広島国際大学に入職し,理学療法士の育成を担うことになりました。入職当時から,研究と臨床の両面において国際的に活躍できるセラピスト研究者を養成することを目標として,学部生を中心に研究室の活動を開始しました。大学院医療工学専攻において大学院生を募集することができるようになり,大学院生は常時5-8名,最大10名となった時期もありました。彼らが研究をリードしてくれたおかげで,14年間の在籍中に70編以上の査読付き論文を公表することができました。大学院OBは,大学や臨床現場で活躍してくれており,それぞれ専門分野のリーダーとして力強く人生を歩んでいます。

 この間,大学院だけでなく学部教育も担っていました。理学療法研究法,スポーツ外傷治療学,運動療法学などの授業を担当しました。また,臨床実習のサポートやキャリアサポート,多職種連携,入試業務など一通りの委員会活動を経験し,大学運営をある程度理解することができました。

 2020年3月末をもって,同大学を卒業させていただくことになりました。Next stageに進むきっかけは,理学療法学専攻の定員増加(60名→80名)の決定でした。大学経営として,志願者の多い専攻の定員を増やすことは当然のことと理解しつつも,これは私の仕事ではないと直感しました。若手のセラピストにフィロソフィーを伝え,高度な技術を教え込み,そして国際誌に掲載される研究を推進する,といったリーダー養成と,80名の学部生教育との両立は不可能と判断しました。学部生には申し訳ないのですが,2020年4月以降は卒後教育に専念させてもらいたいと思います。


●株式会社GLAB(2008- )

 2008年6月26日に株式会社GLAB(ジーラボ)を設立し,代表取締役に就任しました。当時,共和ゴム株式会社の寺阪社長と二人三脚でリアライン・インソールの開発を進めており,その商品化が見えてきたことで会社設立を決意しました。広島国際大学の母体である常翔学園から50%出資していただき,大学発ベンチャーとしての船出ができました。このことは,助成金取得や他者とのコラボレーションを進める上で,力強い後押しとなりました。