生まれは東京ですが、父親の仕事の関係で東京→千葉→愛知と小学1年生まで、点々としておりましたが、最終的に愛知県小牧市に定住することになりました。私が住んでいたのは比較的マンションなどが立ち並ぶニュータウンでしたが、元々は山だったので、自転車で10分も走れば山や田んぼに囲まれた自然豊かなところでした。子供の頃は、秘密基地を作ったり、ザリガニを取りに行ったり、ホタルを見に行ったりと比較的自然の中にいることが多かったと思います。
子供頃から、のびのびと自由にいることに生きがいを得ていたように感じます。そのため、決められたレールの上を進むのはあまり好きではなかったように思います。
中学のときも決められたことが苦手で、テニス部に所属したのですが、1年生はテニスができずに球拾いというルールが受け入れられず、すぐに辞め、演劇部に入ったことを覚えています。なぜ演劇部だったのかは覚えていませんが、とても楽しかった記憶があります。
勉強は、全くできなかったです。勉強に意味を見出だせず、学生時代に勉強した記憶は殆どなく、中学時代は友人と遊んでいた記憶しかありません。高校に行くことは考えていなかったのですが、担任の先生や両親と話し、進学することにしましたが、半端な気持ちで進んだので、続かず半年ほどで辞めてしまいました。
高校を辞めてからは、友人が勤めていた土木関係の会社(防水工)で仕事をしていました。仕事は大変でしたが、年齢が関係なく実力主義であまり縛られない社会がとても新鮮でした。
大学には行っていないのですが、この時期は通信制の高校に行っていました。土木の仕事する中で、今のままでは現場作業しかできないと漠然と不安に思い、もっと自分で仕事は選べるようになりたいと思うようになり、その当時の頭で思いついたのが、高校に行くことでした。
通信制の高校を卒業したのが、22歳の時で愛知から東京に出てきました。はじめに勤めたのが、HR系のベンチャー企業での営業職でした。私の仕事は、中途求人広告の営業、新卒紹介事業の立ち上げでした。テレアポから訪問、受注後の掲載記事の取材、記事作成・運用までを行っていました。今でこそ、2000人くらいの会社になってしまいましたが、当時40名~200名になる時で、とにかく全社員ががむしゃらに働いておりました。今思えばよくやっていたなと思いますが、良い仲間とビジョンに向かって昼夜問わず仕事に取り組み、一緒に会社を大きくしようと飲みながら語り合いをして、不器用ながら乗り越えて行くことができました。本当に濃く良い経験をさせてもらいました。その時の影響は今も受けていると思います。
その後、東北の震災が起こり、勝手な使命感にかられ東北に行くようになり、縁あって石巻市で活動することになりました。仕事を辞めて、支援団体を立ち上げて、震災で傷ついた心のケアと、自宅を流されるなどの大きな問題に対してどのような手順で進めれば、国から補助を受けることができるのかなど、一緒に団体を立ち上げた弁護士や税理士、土地家屋調査士等と被災された方のサポートを行っておりました。
国から助成金をもらって活動していたのですが、その資金だけでは永続的なサポートはできないため、東北の漁師と協力して、風評被害にあっていた海産物などを東京のレストランに売れるように営業をしていました。ただ、いろいろやりましたが、資金的に難しくなったこと、自分に息子ができた事で、他の団体に活動を引き継ぎ、志半ばではありましたが、東京に戻り、今に至ります。