野球一家に生まれたため物心がつく前からバットを握らされていました。大分トリニータジュニアユースのチームに勧誘を受けましたが両親が即断りました。
小学校では生意気な態度でとても審判から嫌われていました。
中学校では地元の佐伯ボーイズで硬式野球をやりました。チームは強く無かったものの脇谷監督に出会い自分の中での野球に対する考えや、人生観が変わりました。3年生の時は鶴岡一人記念大会で九州選抜の主将としてセカンドを守りました。
高校では1年から出場をしていました。1年秋の九州大会ではライトで出場しました。その後怪我をしたがまだ果たせていない事がたくさんあるため手術をし大学での野球を決意しました。