山田太郎
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ヒストリー

出身地

埼玉県

幼少期の暮らし、体験

生まれは東京練馬区
しかし、父親の仕事の都合で2歳ごろまで神奈川県秦野市に在住。

同じく父親の仕事の都合で2歳から4歳まで静岡県富士宮市に在住。
このころから両親の関係が悪化しているのを子供ながらに察知した。
口論も激化し、母親は病みはじめ自傷行為が目立つようになった。
このころはまだ鬱という病にも社会的に理解が少なく、父親も母親の傷口を無理やり俺に見せるなどといった「子供に見せられない行為はするな」という根性論でねじ伏せていた。

5歳ごろ、母親と父親が別居、私は母親に引き取られた、どこに住んでいたかは覚えていない。
母親はヤクルトレディーをし、私はそこに併設された保育所で帰りを待つ、そしてたまに母方の両親や叔母さんと会う、そんな生活を送っていた。

そんなある日、私はたまたま朝起きるのが早く、牛乳を飲みにキッチンに向かった時に発見した。

6/13日 母親が自殺した。

二人暮らしだったので私が第一発見者、ウォークインクローゼットに洗濯ロープをひっかけ首を吊っていた。私は縄をはさみで切りそれが自殺であると受け入れるのにしばらく時間がかかったのだろう、寝ているだけと思い込みゴミを出しに行った。
家の向かいの自転車屋さんのおじいちゃんとばったり会い、家で起きたことを話し、口に出したことでようやく理解したのだろう、おじいちゃんが家を確認し警察を呼んでいる間
私は家の前に石を積み上げ、小さなお墓を作っていたらしい。

そして私は父親に引き取られ、父方の実家暮らしを始めた。
埼玉県蓮田市に在住
そして小学校に上がる直前、虐待が始まった。
始まりは今でも覚えている、友達とカードの交換をしたが私があげたカードの方が強く、
180と160のどちらが強いカードなのかわからなかったからだ。
車の助手席、裏拳が顔面に飛んできたのを皮切りに私の小学生生活とともに虐待生活も始まった。

この時点では頻度は半月に一回程度、祖父や祖母、実家暮らしの叔父もいたため、まだ苛烈化しなかった。
しかし小学3年生のころ、父親が再婚した。
再婚をきっかけに実家から40秒ほどのアパートに引っ越したがこの40秒という距離は虐待が苛烈するには十分な距離だった。
このころから頻度は激化し、毎週土日は地獄が待っていた。詳しい内容は長くなるので割愛するが跡が残るような怪我はしなかった。

学校生活はそれなりに普通の悪ガキ男子だった、学校は毎日いったし、喧嘩もしたしよく走り、放課後は毎日友達と遊んでいた。
もちろん宿題はやらなかった。

小学6年生の夏、マンションを買い、隣町に転居し、学校も転向した。
今度は車で15分、虐待は相変わらずなうえに今度は逃げ場もなくなった。
割と絶望したのを覚えている。
学校生活は一変したが友達はすぐにでき、近くのゲームセンターに入り浸るようになった。

中学・高校時代

中学校は市立、メンバーもほぼ変わらず、部活は運動部以外許されなかったので柔道部に入部した。
中学一年の一学期期末試験、親の虐待教育の成果もあり、20位台を記録した。そこそこな結果が出てしまったのである。

この教育は正しい、なぜなら結果を残したから。

これに誰も父親を論破することはできず、正しいと結論が出てしまった。
そして自分だけでやってみろと言われ、二学期三学期と私は結果が出せなかった。
そして二年に上がるころ、私は不登校になった。

小学校のころから仲良くしていたゲーセンに遊びに行っていた友達やそこで知り合った先輩たちと遊び歩いた。

家に帰りたくないという行動の結果、朝起きられず学校に行かない。
この負のスパイラルは日中共働きで家に俺だけの空間を作り出し、夜は遊びに行くという
最高の生活環境に変わった。

学力は地の底、今でも中三の数学問題は解けないと思う。
そんな中受験シーズン到来。
個人指導の塾には通ったが結局名前を書けば受かるような全日制の高校に入学

高校に行けば、なにかきっかけがあれば学校に行けると考えていた。
そんなに簡単に生活習慣は治らず、かかわる人種も変わらず
高校中退、わずか半年でいかなくなった。

このころ、父親との間で事件が発生した、本気で殺されそうになった
ドライバーを足に刺され、二段ベットの梯子を壁に穴が開く勢いで頭に叩きつけられ、寝起きを襲われた俺は突然の出来事に過呼吸になり、動けなくなってしまった。
俺は動けない、父親は殴り続ける、そんな状況になってようやく母親が初めて警察を呼んだ。
親父も俺も児相に目を付けられ、親父はカウンセリング、接近禁止、俺は祖父と祖母の家が近いので保護まではいかなかった。
そして被害届を出せば刑事事件に発展するところまで事は大きくなった。
さすがに困るので被害届は出さなかった。
そしてカウンセリングや接近禁止が解除されたころ、父親は三重県に単身赴任が決まった。
会うのは大体月に二回、丁度いい頻度と距離感だったのだろう、私も父親のことを憎んでいなかったし、関係を修繕したいと思っていたので二人でお酒を飲んだりカラオケなんかも行き、お互いが冷静な対話を重ね、会話をし、親子関係に戻るのにそう時間はかからなかった。血はつながっているし考え方や思考は根本的には一緒である。
今ではどこの家庭の父子関係よりも良い関係を構築出来ている自信がある。
しかし反対に再婚相手の母親とは良好とは言い難い、特段仲が悪いわけではないが考え方や思考回路が合わず、そりが合わない。
それはお互い理解しているので距離感を保ちつつ、家族としてある程度許容しながら付き合っている。



だが、高校は中退してもかかわる人間関係は終わらない。
無事、中卒フリーター男の完成である。さすがに金は欲しかったのでバイトをした。
ほぼ入学と同時から高校の帰り道のガソリンスタンドでバイトし、高校に行かなくなっても一年間は続けた。
それから知人の紹介でパチンコの打ち子をやったりキャッチなどをし、遊ぶ金を作っていた。

しかし17のころ当時付き合っていた彼女に振られたことがきっかけで、居酒屋のバイトを始めた、ここが俺の人生のターニングポイントになった。
最初は何の気なしに始めたバイトだったが、だらだらと4年も続いた。
その中で次々とくる未来も希望もないような社員やアルバイトを見て、このままで一生を終えたくない、抜け出したいと強く思い、18歳の冬、高校卒業程度認定試験に合格し、進学を決意した。