ユーザーからみた「Pandoとは何か?」:経営学・経済学的なSNS産業の分析

 ここ数日、新型SNSで新たなイノベーションを起こそうとしている「Pando」のアカウントをiwaoshumpeiがIDとなるよう0から作り直して再度始めてみた。Pandoを使いながら、なぜIDを二度と変えられないのか、なぜ信条やマインドなどを書く欄があったりクラウドファンディングの仕組みがあったりするのかなどの疑問がわいてきた。そこに、ふと「そういえばLINEってなぜ欧米で大失敗したのだろう?」という別の疑問が浮かんできて、そのうちにSNS全体を分類・分析できる枠組みをひらめいた。

 まず、世の中に存在するSNSは拡散的かそうでない(収束的)かという軸と、全人的かそうでない(キャラ的)かという軸の2軸で2×2=4分類できる(おそらくこうした分類は世界でも初だと思われる)。これによって、Pandoとは何なんだ?何のためにあるんだ?何に使えるんだ?という疑問にも答えられるかもしれない。

 そこでまずはこの2軸について考えてみる。

1 拡散可能性軸

収束的SNS 基本的には現実世界で見知った相手とつながるのに最適化されたSNS。そのため現実世界で知らない人をフォローしたり知らない人に友達申請したりしても、ブロックされる確率が高い。徐々に関係が濃密になると同時にネットワークが徐々に「閉じていく」という特徴がある。それゆえ閉鎖的な人間関係をもたらす可能性がある。現実世界での濃密・濃厚な人間関係をより強固にしていくため、濃密な関係性の反動として、仲間外れやいじめも起こる。LINE、ミクシィなどが代表例で、主に濃密な人間関係を特徴とするアジア社会で流行る傾向にある(そうした人間関係と馴染まない国では流行りにくい)。Facebookは日本では主に収束的(時折拡散的)SNSとして使われるがアメリカでは主に拡散的SNSとして使われている。

拡散的SNS 記事やコメント、つぶやきなどがいわゆる「バズる」「バズり」やすい特徴をもった、現実世界では見知っていない人ともつながりが広がっていくように設計されたSNS。現実世界では知らない人を気軽にフォローし、情報を得たり、思わぬコラボレーションが実現したりする。そのためネットワークが「拡がっていく」という特徴がある。それゆえ開放的なネットワークをもたらす可能性もあるが、同時に知らない人から攻撃される「炎上」のリスクがともなう。Twitter、アメブロなど。

2 全人性軸

キャラ的SNS 自己紹介などに重点を置かず「現実のその人が一人の人間としてどんな人か」よりも「そのアカウントがどんなアカウントか?」に重点が置かれるSNS。勉強アカ、裏アカ、公式アカ、遊びアカなどアカウントごとにキャラクター性を自分で設定して複数のアカウントを使いわける人も多い。全人的なアカウントではないので、必ずしも実名を明かす必要がなく、匿名または自分が現実世界の誰であるかを明かさずに使用できるのも特徴である。Twitter、ブログサイト、匿名掲示板などが代表例。

全人的SNS 実名、人となり、信条、経歴、社会的地位、精神性など全人格的な「その人にひとつ」のアカウントが与えられることが前提のSNS。実名を明かす、もしくはニックネームであっても「このアカウントは現実世界の誰それである」ことが分かっていることが前提に作られる。現実世界の人物との紐づけがなされているので「その人がどんな人物か」という情報が蓄積される。実名前提のFacebook、人となりに特化したLINE、経歴に特化したLinkedInなど全人性が高いSNSがいくつか存在している。

 この2軸による4区分は、2軸ともに小のマニアの集い型、拡散的だが全人的ではない気軽な落書き型、全人的だが拡散的でない井戸端会議型、全て大の七人の侍型というように分けられる。

 このとき、現在日本で流行しているSNSは収束的でかつ全人的な井戸端会議型か、拡散的でかつキャラ的の気軽な落書き型のどちらかである。LINEは前者だし、Twitterは後者で(Instagramもこれに近い)、中途半端なFacebookはあまりアクティブには使われない。拡散して知らない人とのつながりができる場合は、怖いので匿名や仮名にし、現実の個人が特定されないようにしたいという傾向がある。反対に、濃密なネットワークには知らない人が入ってきて欲しくないから全人的な情報が分かる人としかつながりたくない。これが典型的な日本社会で、ようはムラ社会がSNSでも再現されている。

 もちろん、分類自体は「だから~型はよくない」といった価値判断はしない。それぞれの特徴をうまく使い分ければいいだけだ。気軽につぶやいてスッキリするなら落書き型は便利だし、仲の良い友達と家に帰ってもふざけあいたいときは井戸端会議型が便利だろう。この両方が小さいマニアの集い型は元からニッチである。

 このとき、「現実社会への影響力」「社会への波及効果」の面からみると、実は拡散的で全人的である必要があることがわかる。たとえば起業という例をとってみても、自分の知らない多くの人の協力を得ながら、資金を集め、技術と知識を集め、お客さんを集めないといけないし、そうした際には「この人はどんな人間か」が常にみられることになる。逆側からみれば、会ったこともないし名前もわからない性格もわからない人のためにお金を出そう協力しよう取引しようというのはリスクが高すぎるので、一歩踏み込んだ関係にはなりにくいだろう。

 こう考えたときに、拡散的で全人的なネットワークを作る場は、18世紀イギリスのコーヒーハウス(ここから株式市場は始まったとも言われる)や現在のシリコンバレーなど、現実世界には存在している。しかし、仮想世界のSNSで見てみると、この領域はぽっかりと空いていて、そこにPandoがすっぽりはまることがわかる。つまり、社会への波及効果のある全人的で拡散的なSNSとしてPandoを捉えると、実名制やビジョン・マインドを書く欄の意味、クラウドファンディングや企業との協賛がある理由、IDが1個しかもらえない理由もわかるし、ここでやれることは現実世界での何らかの目標の実現と社会への波及だとわかる。まさしく黒澤映画の『七人の侍』ということだ。

 もちろんこれは1ユーザー視点での理解に過ぎない。ただ、こうして考えるとPandoの意義が一貫した論理で理解できるのである。同時に、この分類が正しいとすると、日本での普及には1つ大きな課題があるとも予想される。長文になってしまったのでそれについては次回書くことにする。