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「他人を信頼する」という社会的知性とSNS

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 ここ数日、Pandoを使っていて、Pandoは全人的で拡散的なSNSなのではないかと書いた。ちなみにその後、こうした簡単な分類だけでなく、投稿に際しての自由度などいくつかの特徴もわかってきた。Pandoでは記事を投稿することができるが、その際Tumblrに最も近い動きをする。すなわち、ブログサイトのように長文を投稿可能で、文字の太字斜体化

他の記事の挿入、

などが可能である。これによって、投稿によって何を言いたいのかを表現しやすいようになっている。この点もTumblrと非常によく似ている。

 このとき、Tumblrが日本において流行していない理由とも関係するのだが、日本にPandoのようなSNSが根付くには、一つ越えなければいけない壁があると考えられる。

 それは一言でいえば「エネルギーを必要とする」ということだ。全人的で拡散的なSNSの利用には「社会的知性としての信頼」を必要とするし、自分が記事を書いたりイベントやプロジェクトの協力者を募ったりする場合にも「自分が信頼に足る人物か審査の目にさらされる」ことになる。これに非常なエネルギーを必要とするのだ。

 まず、社会的知性としての信頼とは、他人に会ったときに、まずは相手を信頼してみる、そして様々な所作や発言からその信頼の程度を上下させる(怪しい人はきちんと見抜く)スキルを指す。心理学者・社会学者・経済学者の山岸俊男先生による実験の積み重ねによって、日本人はこのスキルに乏しいことが判明している。だから、日本は信頼社会ではなく「他人をみたら泥棒と思え」という考えで、相手に村八分などの報復をちらつかせることで裏切れない状況を作り上げる「安心社会」なのだと山岸先生は『信頼の構造』の中で明らかにしている。

 たとえば、日本では肩書きの有無で相手の出方が大きく変化するのも、「この肩書きの人なら裏切って肩書きをふいにするようなリスクは取らないだろう」と思われているからという部分もある。これが安心という概念である。一方で信頼という行為は、相手についての情報を仕入れ、そこから不信につながる兆候がないか情報処理をしなければいけないため、非常に疲れる。頭をフル回転させなければならないからだ。

 私自身もよく「このプロジェクトは誰にとっても有意義だ。日本のためにいいプロジェクトだ」と思えるような企画を(しかも大抵ボランティアで!)していても、なぜか外野が集まってきてあれこれとケチをつけられ、最終的に自分の精神が参ってしまうということがある。これもまた、信頼社会ではない安全社会の特徴として、支配下に置けない人は怖いという反応が起こった結果ともいえる。

 Pandoは、色んな人が濃い情報発信をしていて、そこに色んなイベントやプロジェクトへの参加や協力が可能になっている「七人の侍型」のSNSだと考えられる。だとすると、他者について「この人はどんな人か?」「ビジョンと記事内容が一致しているのか?」「本当に信頼できる人か?」というのを常に頭をフル回転させて考える必要がある。つまり、社会的知性としての信頼を要求するし、反対に自分の人となりを見られることになるため、狭い価値観での投稿(ヘイトスピーチなど)や内輪のおふざけ(炎上目的の動画拡散など)は難しい。

 そのため、Pandoを使いこなすには社会的知性を身に着ける必要があり、そこにはある程度の努力も必要になると予測される。この点が利用者にとって目に見えないコストとなり、低信頼社会・安心社会である現在の日本において定着への壁になると考えられる。

 一方で、山岸先生が『心でっかちな日本人』という後続書で指摘されているように、日本が(省略するがゲーム理論の原理に従い)急速に信頼社会に変わる日もありうるとされている。たとえばPando自体が社会的知性の訓練の場になり、こうした信頼社会の実現に貢献するかもしれない。結局、信頼社会が先かPandoが先か鶏と卵の関係にあるが、うまく相互強化的なポジティブフィードバックの繰り返しを生みだせるかどうかがカギだろう。

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