武士道と仕事

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉があります。幼いころに読んだか、聞いたかだと思うのですが、その意味はずっと「武士は死ぬことが目的である」と思っていました。死に場所を探すために生きている。父親が武士だったら、悲しいだろうな~と思っていました。

その後成長していくなかで、自分なりの解釈は「いつ死んでもいいように、恥ずかしくない精一杯の人生を送る。」と変化しましたが、Google先生に聞いてみれば、「いつも「いったん死んだ気で」何事かに臨めば、自由な気持ちになることができて、仕事もうまくゆく。」という意味でした。

翻って自分は死んだ気で何かに臨んでいるか?まだまだその域に達していない。失敗しても切腹することも磔されることもなく、死ぬことのない時代なのに。モチベーションを維持して頑張ろう!と思うこと自体が、違う話になっている。信念があれば、壁にぶつかっても、嫌なこと・辛いことがあっても、パワーダウンすることはないはずだ。

邪念があり、潜在意識の奥の深層意識からの決意が持てていない。振り返れば、時には流され、手を抜くことは多々あった。そして、自分がどこに行きたいのか?向かう方向は明確では無かった気がする。と言うよりその必要性に気づいてはいたが、自分の心の声には敢えて目を向けていなかったと感じる。

旧約聖書では、労働は神が人間に与えた苦役であった。確か神はアダムとイブが犯した罪に対し「一つは、人間を死すべきものとすること、二つ目に、女が子を産むとき苦しむこと、三つめは、労働の苦役である。 」と決めた。

しかし、この言葉には大学生のころから非常に違和感を感じていた。大した労働ではないが、家庭教師やレストランのウェイターや焼き肉屋の鉄板磨きは楽しかった。雇用主の役に立っていると感じていた。人見知りの私に、年齢を超えた仲間が増えた。労働と仕事は、ニュアンスが違う気もするが、働くという意味では同じだと思う。

何かの本で読んだと思うのだが、身の周りにあるもので自分のものは何があるのか?身体も身の周りの物も自分のものは何もなく、すべて借り物ではないか。魂は輪廻転生しても、在りどころの身体は永遠ではない。人生100年時代であれば、100年したら身体は灰になり土にかえる。その時何が残るのか?

自分の軌跡は何か?何かの偉業を達成したいわけではないし、できるとも思っていない。一つ言えるのは、自分が精一杯生きた証、自分のものといえるのは仕事しかない。「死んだ気で」ではなく、魂を賭けて仕事に向かわなくては、それこそ生きている時間の無駄使いだと思うようになってきた。産んでくれ育ててくれた両親への親不孝でしかない。

自分への約束として、「武士道」を単なる美学ではなく、日本人としての人生観として、そして自分自身の人生を楽しく、心に余裕をもって生き、時にはもがきながら生きていく糧としたい。自分の心の声に向かい合い、心の声を聴き、仕事に向かい合って生きていこう。

松永祥武
2021.06.30

私、祥武の「武」は父親が野武士のように強く生きて欲しいと願い名付けて頂きました。
篠田さんの記事を読んで、魂をかけて人生を歩もうと思いました。
そして、死ぬ時は、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と言って恥じないぐらいに魂を磨き上げておきたいです。

篠田圭介
2021.06.30

コメントありがとうございます。
「野武士」は目指すところですよね。私が新卒で入社した会社も、創業者社長は常に「野武士であれ」と仰ってました。
共に頑張りましょう!!

れな
2021.06.29

記事をありがとうございます!
自分への約束を改めて思い出せる
きっかけになりました!

篠田圭介
2021.06.29

いつも、返信ありがとう❢
貴女の記事も、いつも真摯で心を洗われてます☺️

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