Pandoの“書きごろ”はいつだろうか?

Pandoというサービスに関して浅からぬ関わりを持つわたくしではありますが、正直なところPandoの“書きごろ”について手が止まってしまう事が多々あります。
(食べごろみたいな表現になっちゃってますね・・・)

少なくない頻度で書き始めては内容を眺め、「この考えはちょっと熟成できてないかもしれぬ」と記事ごとなかったことにしてしまうことを繰り返す日々。

Pandoのキーワード、「人生」や「ビジョン」や「叡智」というタグをつけるには、この記事はいささか出来がよくないかもしれないと足踏みをしているというのが現状自己分析した結果ではあるのですが、ではそのタグは一体いつになったら付けられるのか。

現状で「これだ!これを後世に残すべきだ!」と確信したとして、10年後も通用するだろうか?5年後は?来年は?もしかしたら来週には間違いだったと気づくかもしれないと考えるとそれはそれは怖いことです。

私は癖で「去年の今ごろどんな事を考えていたっけ?」と気になり、ちょうど1年くらい前の自分が書いたPandoの記事を読んだり、作ったデザインを見たり、悟りを開いたかのようなTwitterのつぶやきを見てはこう感じます。

「あぁ・・・これはひどい」

考えの未成熟さや理解の浅さ、技術の低さは1年前の最高状態だったんだと目の当たりにすると、とても今が最高状態とは断言できません。
常に1歳年下の自信過剰な後輩がいるような感覚です(けっこうウザいですね)
今書いている記事もすぐにでも消してしまいたい!と考えながら書いていることは理解してもらえたかと思います。

ここで本題に戻ります。
ではいったいいつになったら“書きごろ”が迎えられるのでしょうか。
近頃はUXデザイナー(自称)として、主語を変えてみることを意識していますが、この件に関しても同様に考えてみます。

“未熟な考えかもしれないものを未来に残す怖さ”
怖がるのは自分です、自分の未熟さを他者に見られるのが怖いのです。
『UXデザインが完全にわかっちゃった、もう怖いもんないわ』みたいな記事を、はるか先のステージにいるUXデザイナーに鼻で笑われてしまうんじゃないかという不安。
そういった不安は主語が“他者に見られる自分”になっているから躊躇してしまうのではないでしょうか?

そこで主語を“未来の自分に見られる自分”にしてみたらどうでしょう。
「あいたたー、これがこの時の最高状態か」と来年あたりの自分が一つ下の後輩を見るように振り返れたら、それは来年の自分が今より成長していると認識できたということになります。

逆に「あれ、なんか今とあまり変わらないな」と感じたなら、その時点で考えが洗練されていたか、または自分の成長が鈍化したのかもしれません。

奇しくも今Pandoは多くの20代に利用されています。
20代の時点では何もかもが経験不足で、先も見えないし夢やビジョンややりたいこともどんどんアップデートされていくはずです。少なくとも私は20代のうちに360度を3回繰り返すくらいは変わりました。

その時にふと過去の自分を振り返れる場所としてPandoに残し、過去の自分を「青いねぇ!」と笑いアップデートを確認する。

そうなれば必然的に“書きごろ”は気にしなくてよくなります。
SNSでつぶやくのとは違う密度で、人生の成功者たちとは違う視点で書いたっていいんです。

だってネットはもっと自由で、サービスはユーザーが育てていくものなのだから。
↑これも来年あたりの自分が見たら黒歴史になりそうなワード

そんな青い時期もクライマックス!週明けには胃カメラに人生初挑戦!
世の中まだまだ知らないことだらけです。

Qwintet life
182件
松下 耕三
2020.02.11

たまにPandoは自分を映す鏡だと話しますが、その人そのものが表現されていく場合ですので、何を書くか、書こうとする時に何を感じるかも含めて、自分を映し出してくれます。自分というものはなかなか客観的に見られないものですが、心を映し出す鏡があれば、己をより知ることができます。
その時々の光景を写真に残したいと思うのと同じように、その時々の想いをPandoに残していくと良いのかと思います。

Tsubasa Mouri
2020.02.11

コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、アウトプットは自分の言葉で残そうとする事自体に価値があると感じました、また書いている最中にさえ自分の思考を新たに発見することもあります。
この記事を書く前と書いた後ではPandoに記事を書くことの躊躇いはほぼ無くなりました。
今後もどんどんユーザーとしても使っていこうと思います。

K
2020.02.08

モウリ様
Pandoの“書きごろ”、共感しました。
“他者に見られる自分”ではなく、“未来の自分に見られる自分”にするという考え方、大切ですね。
書かなければ、何も生まれませんが、書くことによって、良いこともそうでないことも、自分の人生として見直すことができると感じます。
胃カメラ、私はまだ体験したことはございませんが、頑張ってください!笑

Tsubasa Mouri
2020.02.11

振り返れる場所があるということは、その時に自分が何かを成して、考えていたという証明にもなります。
何もしていない、考えていない人は残せるものもないとすれば、我々は随分と幸福なのかもしれません。

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