流れなかった言葉が一つだけあった

 世界を襲おうとしているものが一つある。巨大な彗星だ。周回軌道の計算上、あれは数年後に地球に衝突し、世界を滅ぼすらしい。
 僕を襲ったものが二つある。
 一つはなんて事のない、ただの恋愛感情だ。教室の隅で本を読み耽るような性格の僕は、対角線上に当たる教室の隅で本を読み耽っていた彼女を気にしていた。
 ある時彼女は、僕も以前に読んだ事のあった本を読んでいた。
 僕はその本の中盤の、とある場面で泣いてしまった。別に山場でもなければ、涙を誘うような展開だったわけでもない。ただ、主人公が流れ星を見上げながら、隣の大切な人に「綺麗ですね」と呟くだけのシーンだ。
 彼女がそのシーンに差し掛かり、クラスの誰にも気付かれないよう涙ぐむ姿を見た時、僕はこの感情をはっきりと自覚した。
 僕を襲ったものがもう一つ。とある病だ。別に余命がどうとか身体が悪いとか、そういう類のものではない。強いて言えば、精神に悪い病だろうか。
 彼女が例の本を読み終えたのを見て、僕は感想を聞きたいと思った。それで、そっと彼女の傍に立ち、「その本、面白かった?」と訊ねようとした。でも、言葉が出なかった。代わりに、全く別のこんな言葉が零れていたのだ。
「連絡先交換しない?」
 確かに、考えていなかったわけではない。でも確実に、このタイミングで発する言葉ではなかった。僕が一人混乱しているのをよそに、彼女は「はあ」と怪訝な表情で言った。僕は酷い罪悪感に苛まれた。
 結論を言うと、僕は「本当に伝えたい事だけが伝えられない」病気に罹ってしまった。こんな病気は日本でも初めてだろうし、病名だって無い。でも、「伝えたいのに伝えられない」この感覚だけは確かにあるのだ。
 事実、ようやく携帯でのやり取りも板についてきた頃、「今度、一緒に遊びに行かない?」という文面は打てず、「そう言えばあの本面白かった? 僕も読んだんだけど」と伝える事ができた。これは、本当に伝えたい事の優先度が変わったという話だろう。
 高校の卒業式の後、夕焼けの赤が刺す静かな教室で、僕は彼女と二人きりになった。
 このタイミングで、彼女に伝えたい事は一つだった。たったの三文字だ。でも、それすら叶わなかった。僕の口からは「また会おう」という五文字が零れていた。その時、彼女が何を思っていたかは分からない。でも、少し苦しそうな顔で「うん。また会おう」と言ってくれた。
 もしかすると、僕がその三文字を口にするのを待ってくれていたかもしれない。そう思うとやるせなかった。その後悔は色褪せる事なく、大学を卒業して尚、僕は彼女の事を忘れられないままだ。
 
 大学をそれなりの成績で卒業した後、僕は周囲の勧めでとある研究所に入所した。そこで、新たなプロジェクトが立ち上がるから加われと。そのプロジェクトこそが、例の彗星から地球を救うという研究だった。計算が正しければ、あと一年で地球は滅びる予定だった。
 正直なところ、僕は地球がどうなろうとどうでもよかった。せめて死ぬまでの僅かな時間くらいは、いい給料を貰って少しばかり贅沢をしながら生きてみたい。そう思っただけだ。
 ただ、そうも言ってられない事態が起きてしまう。プロジェクトメンバーが初めて全員揃って、顔合わせをするという日。
「……あ」
「……え」
 そこに、彼女がいたのだ。
 
「そこは僕がやっておいたから」
「ありがとう」
 プロジェクトが発足して半年、地球滅亡まで半年。正直、僕は幸せだった。世界の終わりまでの数か月間を、好きな人と過ごせているのだ。これが贅沢でなくてなんだろう。
 ただ、本当に伝えたい事は伝えられないままだ。その言葉を口にする事はもう叶わないのだろうなと、僕は完全に諦めていた。
 とある日の事だった。彗星が予想よりも早く地球へ到達してしまいそうだという計算が出てしまい、研究所が大慌てになった。
 その日はメンバーが一人残らず忙しくて、何を差し置いても仕事が最優先になった。僕自身、その日だけは彼女の存在を完全な「仕事仲間」と捉えていた。
 だからだろう。その状況で一番優先されるべき業務上の指示が、口から出なかったのだ。
 そして同時にふと思った。今なら言えるんだな、と。
 もちろん、このタイミングで能天気に口にしていい言葉ではない事くらい知っている。
 でも、僕は確信した。僕が、彼女の存在を忘れるくらい仕事にのめり込めば、彼女に伝えたい想いを伝えられるのでは、と。もちろん、その為にはまず僕が本心から仕事を大切に思う必要があった。
 少し仕事の落ち着いた翌日。メンバーが疲れを見せながら仕事をこなしている中で、僕は誰よりも忙しく働いた。それでも、僕の中にはどうしても彼女の存在が居座り続けていた。むしろ、忘れなければと思う程に想いが強まっているような気さえした。
「私も手伝うよ」
 彼女は僕のやましい気持ちなどつゆ知らず、僕の仕事を手伝ってくれた。「やっと地球を救う気になった?」「どうだろうね」と笑って、会話をしながら仕事をした。案の定、彼女への想いは更に強まる一方だ。
 そして、僕と彼女が働き過ぎた結果、なんと、彗星を破壊できる装置が完成してしまった。
 
 テレビの向こうでお偉いさんが「地球は守られます」と宣言する。研究所内に拍手が響く。一番の功労者である僕と彼女は手を取り合い、「やったね」と大いに喜んだ。
 一方で僕は、「本当に良かったのだろうか」とも思っていた。地球の危機が救われた以上、もう今までのようには仕事にのめり込めない。となれば、やはり彼女への想いは告げられないままなのでは、と。彼女と向き合う為に、彼女以上に向き合えるものがあるだろうか。僕がそんな事を考えていた時だった。
「プロジェクトは大成功。よって、チームは解散。皆には、次の勤務地を割り振る」
 プロジェクトのリーダーが、突然そんな事を言った。
 彼女と、離れ離れになってしまう。想いを告げられないどころか、もう二度と会えなくなってしまう。
 僕は考える。もうどうしようもないのだろうか。安心安全で、静かで平和な彼女のいない世界を一人で生きていかないと駄目なのだろうか。僕は、酷く恐ろしかった。
 だから、僕は決心した。
 そんな世界、僕がぶっ壊してやる。本気で思った。
 
 誰もいない深夜の研究所に、ひっそりと侵入する。
 あの装置を壊せば、またしばらくはここで働く事になる。しかし、今機械を壊してしまえば、もう地球滅亡には間に合わないだろうというのも何となく分かっている。
 それでも、僕は決めたのだ。彼女と共に、終わりゆく世界を受け入れる事を。
 伝えたい事なんて伝えられなくてもいい。ただ、視界に映す最後の景色が彼女であればいい。それだけだ。
 装置の心臓と呼ぶべきコンピュータ室に入室する。仰々しい機械達が、装置起動の瞬間を今か今かと待っている。ポケットに入れていたハンマーを振りかぶり、機械を壊そうとした、その時だ。
「あっ」
「えっ」
 後ろを振り返る。
 なんと部屋の入り口に、彼女が立っていたのだ。彼女はなぜか、右手にバールを握っていた。
 僕は慌てて、「いや違うんだ」「別になんでもなくて」とハンマーを隠す。彼女も最初は動揺し、僕と同じようにバールを後ろに隠した。しかし、僕よりも先に心を落ち着け、ゆっくりとこう言った。
「ここで、何してるの?」
 彼女に訊ねられ、僕は困った。
 やろうとしていた事は、お互いにもう明白だ。でも僕は、「君とまだ一緒にいたくて」「君と世界の終わりを見届けたくて」とすら口にできない。
 だから結局、僕はこう言う他になかった。
「……流れ星が見たくて」
 
 それから、地球滅亡までの僅かな猶予を、彼女と共に過ごした。
 一番大切な事は言わないまま、今までに読んだ本の感想とか、高校時代の想い出とか、どうでもいい話ばかりをしていた。
 そして、その日がとうとうやってきた。
 僕らは星がよく見える山の山頂にいた。そこでもまた、夜空を眺めながら意味の無い言葉を交わした。
「僕、本当に伝えたい事だけが伝えられない病気に罹ってるんだ」
 そのタイミングで、僕の病気についても説明した。信じてもらえないだろうな、と思っていた。でも、彼女は僕に向かって真顔でこう言ったのだ。
「私もそうなの」
 僕らはお互いに顔を見合わせ、一緒に笑った。
 なんだ、同じだったんだ。急に仕事にのめり込んだ理由も、装置を壊そうと思い立った理由も。全部、同じだった。
 やがて、彗星が尾を引きながら夜空を切り裂いていった。僕は高校時代に読んだあの本の、あのシーンを思い出していた。彼女とだけ共有できる想い出だ。主人公と同じセリフをなぞって、僕は「綺麗だね」と伝えたくて口を開いた。でも、言葉が出なかった。代わりに、別の言葉が零れていた。
「君が好きだ」
 それは、とても自然な事のように思えた。彼女は静かに頷いた。
「私も。貴方が好き」
 僕らは、数年前からずっと伝えたかった言葉をようやく口にできた。
 本当はあの日、卒業式の後の教室で、自分の口から伝えたかった言葉だ。
 でももう今は、これでいい気がした。