僕と後輩 20.大好き

 部室で一人うたた寝をしてしまい、次に目覚めた時には十年後になっていた。どういう理屈なのかタイムスリップをしてしまったらしい。どうしたものかと頭を悩ませていると、いきなり部室の扉が開いた。
「誰かいるの?」
 多分、この時代のこの学校の教師だろう。その人は僕を見て、一瞬戸惑った顔を見せた後で、「嘘でしょ」と掠れた声で言った。
「……先輩?」
「え?」
 
「……それで、気が付いたらタイムスリップしていた、と」
「そういう事だと思う」
 少し埃っぽい部屋で、僕と彼女は一日ぶりに、あるいは十年ぶりに向かい合っていた。「もうこの教室は使われてないんですよ」とも教えてくれた。
「君が教師になるなんてね」
 少し迷い、彼女を変わらず「後輩」として捉えて言った。それに彼女は懐かしそうな、でも寂しそうな表情でほほ笑んだ。
「あの頃の私は先輩に囚われていて必死だったんです。そんな私が行けそうな場所なんて、学校くらいしかなかったですから」
 遠い昔のように話す。いや、実際そうなのだろうけど。それでも、張本人を前にして淀みなく話したり、全てを過去形にしてしまったり。そういう部分に、否が応にも時間の流れを感じさせられる。
「今なら分かります。私はもっと自由になれたのに。先輩にばかり囚われずともよかったのに。今ではもう分かりません。どうしてあの頃の私は、先輩ばかりを追いかけていたのか」
 くすんだ写真のように、錆びついた歯車のように。追い抜いてしまったものは、もうどこにも行けないのだ。
「なんか、僕の事が嫌いになったみたいな言い方に聞こえる」
「違いますよ。先輩がまだ子供だから分からないだけです。あるいは、分かってないのは女心かもしれないですけど」
「そういう所も好きだったんでしょうけどね」と、また悲しそうに笑いながら言った。
 結局そういうものだ。過去になったものは、遠く離れたものは美しく見える。そうでなくとも、苦しんでいた自分の頭を撫ででやりたくなる。生きている限りそれの繰り返しだ。
「君に何かを教わる日が来るとは思わなかったよ。やっぱり大人になった」
「先輩こそ、そんな顔でしたっけ?」
 彼女は作った冗談交じりの笑顔で言った。当たり前だ。彼女も生きていれば大人になる。僕を忘れて前に進もうとする。僕がここに現れなければ、思い出す事もなかっただろうに。苦しい想いをさせずに済んだのに。
「……何か、十年前の君に伝えたい事はない?」
 だから、今の僕ができるのは、これくらいの事だ。もう死んでしまう過去の彼女を、少しでも幸せな過去形にしてあげるくらいだ。
 彼女は少し悩むような表情を覗かせたが、やがてふと優しい微笑みを湛えて首を横に振った。
「何も無いです。あの頃の私はめいいっぱい幸せでした。その不確かなものを、ずっと大切にしていて欲しい。いつか、無くなるものだとしても」
 そう言った時、学校のチャイムが響いた。十年経とうとも変わらぬ音色だった。
「先輩、ありがとうございました。出会えて良かったです」
「僕も会えて良かった。十年経っても元気でやってるって分かったから」
「そうだけど、そうじゃないです」
 くすくすと笑いながら立ち上がる。僕はその場に座ったまま、「どういう意味?」と訊ねたが、彼女はそれには答えてくれなかった。
 部室の扉を開け、もう一度だけこちらを振り向き、「先輩」と僕を呼ぶ。その優しそうな表情が意味するところは、僕にはわかるはずもなかった。
「さよならです、先輩。私は、先輩の事が大好きでした」