授業が始まる直前に学校を連れ出され、行先も分からない電車に乗せられ、駅で停まった回数を数えるのに飽きたくらいのタイミングで、ようやく彼女から理由を聞かされた。
「私達はいつだって、非現実を求めています」
駅に停まるに連れ、人の数は徐々に減っていく。車両から他の人間が誰もいなくなっても、僕らは肩に触れない距離感で隣に座っていた。彼女が僕と距離を取ろうとしない理由は分からないけど、「海が綺麗だから」くらいでいいのかもしれない。車窓の外に見える青色を見て何となく思う。
「少しでいいんです。少しだけ、緩やかにはみ出していたいんです。手を伸ばせる範囲のものにしか手を伸ばさない、どうしようもない臆病者ですから」
「君にとってのその〝非現実〟に、連れて行く相手が僕でいいの?」
「他人がいいんです。傷付けても平気な人。誰でもない人。私にも大切な人はいて、その人達には生きるこの先があって。当たり前だけど、そういう人達には幸せであって欲しいって思いますから」
それを聞いてようやく、彼女は海に死にに行くらしいと気付いた。でも、彼女は死なないのだろうなと思った。どうせ綺麗な海を眺めてとんぼ返りだ。僕らはそういう人間だから。彼女の言葉を借りれば、どうしようもない臆病者でしかないから。
電車を降りると、すぐに潮の香りが鼻をくすぐった。人気のない終着駅を出てしばらく歩くと、ものの数分で海まで辿り着いた。海は別に好きでも嫌いでもないけど、ただ青くて綺麗で、あ、いいなと漠然と思った。
「海は好きです。これ以上先が無い。足を進める事すらできない。結局、どこにも行けない私達は、優しい潮風に当てられるしかない」
「今みたいに?」
僕が訊ねると、彼女は風になびく髪を耳にかけながら「そうですね」と優しく微笑んだ。彼女が笑う姿を、僕は初めて見た気がした。普段なら見られない表情だ。僕はそれに見て見ぬふりをして、まあいいかと思う事にした。
空は澄んでいて、海は青く透明で、砂浜は躊躇うくらいに白くて、潮風は何かを優しく攫ってしまいそうで、さざ波の音が耳に心地良くて。そういうものだけでいい気がした。世界全部が、こういう風に穏やかで綺麗であればいいのに。そういう時間だけを求めていたはずだったのに。
「全部全部、どうでもよくなりますね」
気が付くと彼女は、ローファーと靴下を脱ぎ捨て駆け出していた。地を蹴る度に砂が舞って、小さな足跡がうっすらと刻まれる。そしてそのまま、足が濡れる事も厭わぬままに海の中へと進んでいった。僕はしばらく彼女の背中を見送って、その後でゆっくりと彼女が立つ方へと足を進めた。
「死にたい?」
こちらに背を向け、眼前に広がる海と対峙する彼女に問う。少し沈黙が流れた後で、彼女は小さく「分かりません」と言った。
「他の誰かになりたい。ずっとずっと遠くに行きたい。それだけです。それだけなのに」
少なくとも、好きな人と一緒にいたいとか、サンダルを放りながら「明日天気になあれ」と呟いてみるとか。そういう事よりは、口に出すのはずっと容易なはずだ。なのに、多分いじめを失くすよりも世界平和よりもずっとずっと難しい。
だから、僕らはもっとずっとシンプルでインスタントな言葉ばかりを求めてる。例えば、今日彼女がここに来た理由のように
「良かったじゃん。それが死にたいって事だよ」
「ええ。死にたいとすら思えない人生なら、本当に死んだ方がマシです」
自分が嫌いな自分が嫌いじゃなくて、死にたい事は多分死ねないでいる理由には充分で。じゃあどうしたいかって言われても分からない。どうでもいい過去とか綺麗な景色に打ちひしがれて消えたい。それだけだ。
「本当にどうしようもなく死にたくなったら、僕が一緒に死んであげるよ」
「先輩と一緒に死ぬくらいなら死んだ方がマシです」
そう言って彼女は、足元の水面を蹴って海水を僕の方に寄越した。黒い長ズボンが濡れて、重たい色に変色する。
「……何笑ってるんですか、気持ち悪い」
彼女が眉をひそめながら言った。僕は笑っていたらしい。理由は分からない。
でも敢えて言うなら、非現実的なくらい、どこか遠くに行ってしまいそうなくらい、彼女が綺麗だったから、とかでいいのだろう。こんな事を言うと、彼女は怒るのだろうけど。
「私達はいつだって、非現実を求めています」
駅に停まるに連れ、人の数は徐々に減っていく。車両から他の人間が誰もいなくなっても、僕らは肩に触れない距離感で隣に座っていた。彼女が僕と距離を取ろうとしない理由は分からないけど、「海が綺麗だから」くらいでいいのかもしれない。車窓の外に見える青色を見て何となく思う。
「少しでいいんです。少しだけ、緩やかにはみ出していたいんです。手を伸ばせる範囲のものにしか手を伸ばさない、どうしようもない臆病者ですから」
「君にとってのその〝非現実〟に、連れて行く相手が僕でいいの?」
「他人がいいんです。傷付けても平気な人。誰でもない人。私にも大切な人はいて、その人達には生きるこの先があって。当たり前だけど、そういう人達には幸せであって欲しいって思いますから」
それを聞いてようやく、彼女は海に死にに行くらしいと気付いた。でも、彼女は死なないのだろうなと思った。どうせ綺麗な海を眺めてとんぼ返りだ。僕らはそういう人間だから。彼女の言葉を借りれば、どうしようもない臆病者でしかないから。
電車を降りると、すぐに潮の香りが鼻をくすぐった。人気のない終着駅を出てしばらく歩くと、ものの数分で海まで辿り着いた。海は別に好きでも嫌いでもないけど、ただ青くて綺麗で、あ、いいなと漠然と思った。
「海は好きです。これ以上先が無い。足を進める事すらできない。結局、どこにも行けない私達は、優しい潮風に当てられるしかない」
「今みたいに?」
僕が訊ねると、彼女は風になびく髪を耳にかけながら「そうですね」と優しく微笑んだ。彼女が笑う姿を、僕は初めて見た気がした。普段なら見られない表情だ。僕はそれに見て見ぬふりをして、まあいいかと思う事にした。
空は澄んでいて、海は青く透明で、砂浜は躊躇うくらいに白くて、潮風は何かを優しく攫ってしまいそうで、さざ波の音が耳に心地良くて。そういうものだけでいい気がした。世界全部が、こういう風に穏やかで綺麗であればいいのに。そういう時間だけを求めていたはずだったのに。
「全部全部、どうでもよくなりますね」
気が付くと彼女は、ローファーと靴下を脱ぎ捨て駆け出していた。地を蹴る度に砂が舞って、小さな足跡がうっすらと刻まれる。そしてそのまま、足が濡れる事も厭わぬままに海の中へと進んでいった。僕はしばらく彼女の背中を見送って、その後でゆっくりと彼女が立つ方へと足を進めた。
「死にたい?」
こちらに背を向け、眼前に広がる海と対峙する彼女に問う。少し沈黙が流れた後で、彼女は小さく「分かりません」と言った。
「他の誰かになりたい。ずっとずっと遠くに行きたい。それだけです。それだけなのに」
少なくとも、好きな人と一緒にいたいとか、サンダルを放りながら「明日天気になあれ」と呟いてみるとか。そういう事よりは、口に出すのはずっと容易なはずだ。なのに、多分いじめを失くすよりも世界平和よりもずっとずっと難しい。
だから、僕らはもっとずっとシンプルでインスタントな言葉ばかりを求めてる。例えば、今日彼女がここに来た理由のように
「良かったじゃん。それが死にたいって事だよ」
「ええ。死にたいとすら思えない人生なら、本当に死んだ方がマシです」
自分が嫌いな自分が嫌いじゃなくて、死にたい事は多分死ねないでいる理由には充分で。じゃあどうしたいかって言われても分からない。どうでもいい過去とか綺麗な景色に打ちひしがれて消えたい。それだけだ。
「本当にどうしようもなく死にたくなったら、僕が一緒に死んであげるよ」
「先輩と一緒に死ぬくらいなら死んだ方がマシです」
そう言って彼女は、足元の水面を蹴って海水を僕の方に寄越した。黒い長ズボンが濡れて、重たい色に変色する。
「……何笑ってるんですか、気持ち悪い」
彼女が眉をひそめながら言った。僕は笑っていたらしい。理由は分からない。
でも敢えて言うなら、非現実的なくらい、どこか遠くに行ってしまいそうなくらい、彼女が綺麗だったから、とかでいいのだろう。こんな事を言うと、彼女は怒るのだろうけど。