僕と後輩 2.冷夏の終わる日

 春先と言えどまだ冬の名残ある寒さなわけで、今年はそれが特に顕著だった。
 桜の残花が宙を舞う四月。僕の前に姿を現した彼女は、既に夏服に身を包んでいて、厚い学ランを着ていた僕はすぐにこう思った。「まるで雪女のようだ」と。
 それが気になって、僕は一度だけ、何の気なしに「寒くないの?」と訊ねた事がある。彼女は少し考えるような素振りを見せた後で、射貫くような冷たい目で僕にこう言った。
「私、暑いと生きていけない気がするんです」
 
「夏」と聞いたイメージで誰かが塗りたくったような青色の空の日。彼女はいつものように、涼しい顔で目の前の文庫本に顔を落としていた。僕も同じような事をしていた。
 開いた窓から吹き抜ける夏風は、冷蔵庫を開けた瞬間のように少しだけ冷えていた。学ランを着る程ではないが、少しだけ肌寒く、捲り上げていた長袖の薄いブラウスの袖を手首の位置まで戻す。
 窓際にいる彼女は、その風を全身に受けている。風下にいる僕ですら肌寒いのだから、彼女はもっとそのはずだ。なのに、彼女は春からずっと変わらず半袖のブラウスを着こなしている。気温などどうでもいい事のように、風に捲られる本の頁に苛々している。
「窓、閉めたら?」
「どうしてですか」
「寒いだろうし、本がよみづらそうだから」
「大丈夫です。なんなら少し暑いくらいなので」
 これだけ冷たい風が吹いていて、暑いなんて事があるだろうか。さすがの僕でも、少し違和感を覚えた。
 袖から伸びた彼女の腕を見る。寒さに曝され続けている二の腕は、病的な程に青白い。まるで雪のようだと、ほんの少し綺麗だと思った。
「ちょっと、何見てるんですか」
 彼女はそう言って自分の腕を隠すように両腕を交差させる。僕は少し慌てて「ごめん」と目を逸らした。
「まだ気にしてるんですか。私はただ暑がりなだけです」
「いくらなんでも無理があると思うよ。初めてここにきた日から、ずっと半袖でしょ」
「暑いんだから仕方ないですよ。なんなら気温は年々と上がっていくばかりじゃないですか。生き辛い世界だなって思います」
 そう言って彼女は文庫本に栞を挟み、自分の首元を手で扇ぐような所作を見せる。そしてその後で、ぽつりと小さくこう言った。
「このまま北上しちゃいたいです。渡り鳥みたいに」
 言葉の意味は分かっても意図が理解できず、僕は眉を寄せて彼女を見た。それが彼女の目にどう映ったかは分からない。彼女は少し考えるような表情を見せ、やがて思い付いたようにこう言った。
「私、雪女なんです」
 唇に人差し指を当て、「内緒ですよ」と冷えた声で言う。足跡の一つも無い、ただ白いだけの雪原を思わせるような静けさだった。
「だから寒いのは得意って言いたいの?」
「大雑把に言えばそういう事ですね」
「雑過ぎるでしょ」
「いいじゃないですか。女の子はそのくらい神秘的な方が可愛いものなんです」
 吹き抜ける風に気持ちよさそうに目を細め、流れる髪をそっと耳にかける。その仕草がまるで世界の秘密そのものみたいに綺麗で、神秘とか秘密とか、人が簡単に触れてはいけないものはきっと、積もった雪の深く、奥底に眠っているのだと何となく思った。
「前に言いましたよね。私、暑いと生きていけない気がするって。あれ、本当ですよ」
 数か月前の出来事を思い出す。春なのに冬を連れて来たような、雪女のような彼女を。
「だから、私に色目とか使わないでくださいね。先輩にそういう事されちゃうと私、体が火照っちゃってきっと死んじゃいますから」
 彼女はまた、どこまでも涼しい微笑みを浮かべて言った。彼女の瞳の奥深く、雪の結晶のように綺麗な何かが凝固しているのが見える。冬が終わって春が訪れるように、何かを攫ってふとした拍子にいなくなるように、彼女は脆くて儚くて、そして、綺麗だった。
 夏が終わってようやくまともに気温が下がっていく季節の変わり目、彼女は突然いなくなった。僕にはそれがなんだか当たり前の事のように思えてしまった。
 以来、彼女がいた時のような冷たい夏はもう訪れなかった。ただ、気まぐれに吹く冷たい風に、心まで凍てつかせるような彼女の存在を今でもふと思い出す。