気分

「可哀想」と彼女は言った。
「私って気分屋だからさ、別にやる事為す事に大きな意味があるわけじゃないの」
「よく知ってるよ」
 陽の沈んだ真っ暗な街中、街灯だけを頼りにして歩いた。彼女のぷらぷらとした手持ち無沙汰な手を見つめ、自転車で良かった、言い訳ができる、とハンドルを強く握った。
「美人はいいよねえ。薄化粧で済むし、髪が短くても顔が目立つだけだし」
「だからあんな風になるんだろうね」
「それが可哀想だって言ってんの」
 彼女は怒ったように言い、僕の右肩を強く叩く。弾みで手に当たったベルが耳に劈く音を鳴らした。
 学年でも名の知れているような美人が、女子の妬みの対象ですらあった長い髪をばっさりと切っていた。たったそれだけだ。それだけでクラスの連中はこそこそと声を潜め、勝手な噂をまくし立てる。それが可哀想だと、彼女は言う。
「髪くらい勝手に切らせてくれって思わない? 気分で髪を切ったくらいで『失恋』とか。同情する」
「そもそもどうして失恋したら髪を切るの?」
「私に分かると思うわけ?」
「思わない」
 また肩を叩かれた。今度はさっきより二倍も三倍も痛かった。ベルが街中に反響する。
「知ってる? ショートカットが好きっていう男は大抵面食いなんだよ? あれは短い髪が好きなんじゃなくて、短い髪の似合う美人が好きなの」
「だから皆して噂するんだろ。実際似合ってたし」
「どいつもこいつも、美人にしか興味が無いよね」
「そりゃあ君が髪を切ったところで誰も噂しないだろうよ」
 腰に強い蹴りが入った。今度はベルではなく、僕の「痛い」という叫び声が夜空に吸い込まれていく。
「おい、今のはさすがに駄目だろ」
「はあ? 悪口言う方が駄目だと思うんだけど」
 それは確かにそうだと思ったので、僕は何も言えず自転車を押し続けた。
 それからしばらくは、二人とも黙ったまま街中を歩いた。どこか遠くから、夏虫の鳴き声が不規則に聞こえている。
 彼女は肩甲骨辺りまで伸ばした髪を首元で弄んでいた。蒸し暑い日々が続く夏だ。そりゃあ髪を切りたい気分にもなる。彼女の汗ばんだ首元から目を逸らした。
「あんたは、短い髪が好きなわけ?」
 歩く速度を少しだけ落とし、隣の彼女が訊ねる。その表情は暗がりでよく見えない。
「まあ、長いよりは短い方が好きかな」
「どうせあんたも面食いなんでしょ」
「どうしてそうなるんだよ」
「だって、私が髪を切ったところでどうせ興味無いくせに」
 僕は少し驚き、足を止めて隣を見た。彼女はこちらを鋭く睨みつけている。
「えっと、それはどういう」
 右足の太腿を思いっきり蹴られた。「痛い」という叫び声が響く。思わずハンドルから手を離してしまい、自転車を倒す。僕はその場にうずくまった。
「なんで蹴るんだよ」
「あんたの右足太腿が蹴りやすそうだったから。そういう気分だったから」
 それだけ言い残し、彼女は走り出してしまった。彼女の家まではもう五十メートルもないし大丈夫だろう。僕はしかめた顔で薄目に彼女の背中を見送った。なんなんだよ、そんな事ないとか言えばいいのかよ。
 右足を抑えながらふらふらと立ち上がる。静けさを取り戻した空気に、夏虫の鳴き声と自転車のチェーンが回転する音だけが馴染んでいた。
 次の日、彼女はばっさりと髪を切って登校してきた。けれど夏の暑さにあてられて髪を切ったのは彼女だけじゃない。彼女は少しも噂になんかならなかった。
 
 夏虫の声がする。夜空を見上げると、夏の大三角形らしきものが見える。どの星を繋いだところで三角にはなるのだろうけど。
 二人の学生とすれ違った。髪の短い女子高生と、自転車を押しながら歩く男子高生。なぜか分からないけど、それに言い様のない懐かしさを感じた。もう遠い日の、夏の夜のどうでもいい出来事だ。伸びた髪に隠れた首元の汗を拭う。
 鍵が開けっぱなしだった事に溜め息を吐き、扉を開ける。更にはクーラーも点けっぱなしだったから、もううんざりしてスーツを適当に投げた。冷えたビールの入った冷蔵庫を開けるのも面倒くさくなって、ベッドに勢いをつけて座り込む。
 どうして今更こんな事を思い出すのだろうと、机の上に置かれたものを見る。吸い殻の溜まった灰皿、会社の書類、五分ずらした置時計、散乱する筆記用具、二枚の紙切れ。
 どこで違ったのだろう。あるいは、何もかもが違ったのだろう。後悔とか、そういう事ではないのだ。どうしようもないような日々だけが過去にあって、変わらないものが何も無かった。ただそれだけの話だ。
 思い出そうとする度、なぜか手を強く握りしめてしまう。自転車のハンドルを握りしめたあの日の手は、今となっては何も無いのに宙ぶらりんのままぷらぷらしている。あの日言えなかった言葉は、どこかに蟠りを作っていつか放出される日が来るのを待っているようだった。そんな日は、もう来ないのに。
 大きく息を吸い込み、気持ちを切り替えるように手を叩く。机に放置されていた紙切れのうち、一枚を見た。写真の中で彼女は、嬉しそうに笑っていた。綺麗な黒髪を伸ばしながら、薬指で光るものを見せつけながら。
 写真を机の隅に追いやり、もう一枚の紙と向き合う。机の上にあったボールペンを握って、「御欠席」という字と「御出席」の「御」の字を二重の縦線で消した。「出席」という字を丸で囲む。
 その招待状の隅に、『絶対来い!』と、彼女らしい活発な字で書かれている。僕はそれに少し微笑みながら、その隣に返事を書いた。
『気分次第かな』