重なる手で連弾を

「この手が嫌いだった」
 僕は彼女の手が好きだった。傍から見れば、目を逸らしたくなるほどに傷だらけの手だった。
 彼女は生前、ピアノを弾いていた。音楽室の清掃を担当している僕がそこへ向かうと、彼女は決まってピアノを弾いていた。毎日苦しそうな顔で、乱暴に鍵盤を叩いていた。何をそんなに苦しんでいるのだろうと、いつも不思議に思っていた。
 弾く曲は決まって同じものだった。曲名も知らない、聴いた事もない曲。僕は彼女がその一曲を弾き終えるまで、後ろでそれを待っていた。ピアノを弾き続けたせいで随分とボロボロになった手。僕はそれをなんとなく眺めていた。
 彼女が自殺したと耳にした時、僕は「やっぱりな」と、どこか腑に落ちた部分があった。どうしてかは分からない。ただ、命尽きるその瞬間まで、彼女はやっぱり苦しそうな顔をしていたのだろうという気がしている。
「最初が手じゃないのは少し残念」
「でも足から消えていくのは幽霊っぽくていいと思うよ」
 僕がそう言っても、彼女は不満げな顔をしたままだった。半透明な自分の手を見つめ、「やっぱり嫌い」と文句を言う。僕は彼女の手が好きだという事を、彼女本人には伝えなかった。嫌いなところを好意的に受け止めてしまうのは、彼女を傷付ける結果になってしまうのではないかと思っていた。
 彼女はこのまま成仏していくのだろうと思っていた。実際、彼女もそう思ったのだろう、「不幸になれば成仏しなくて済んだのかな」と小さく言った。
「どうしてそう思うの?」
「大抵は幸福になったり、未練がな無くなればば成仏するって言うから」
「じゃあ君にとっての不幸って何?」
 僕が訊ねると、彼女は少し俯いて考える様子を見せる。一瞬の沈黙があった後で、「分からない」と首を振った。
「でも、こうやって成仏してるわけだし、私は不幸じゃないんだろうなって思うしかない」
 彼女はいつも、不機嫌そうな顔をして生きていた。ピアノを弾いている時に見せる苦しそうな顔とは別に、常に眉間に皺を寄せていた。それが本来の表情なのだろう。結局、「不幸ではない」と言い切った今この瞬間だって、彼女は難しい顔をしている。
 彼女の膝上までが消えていく。ゆっくりと、世界の回る速度のように、僕らが歩んできた速度のように、それは緩やかだった。
「不思議な感覚。足は無いのに立ってる感覚がある」
「幻肢痛みたいなものだ」
 そう言うと、彼女は首を傾げて「幻肢痛ってなに?」と首を傾げる。僕はそれに「今の君みたいな状態の事」とだけ答えた。
 やがて膝上から太腿へ、彼女の身体が消えていく。そうやって腰を辿って上半身も消えていくのだろう。そう思っていた。
 成仏と呼ぶべき現象は、なぜか彼女の太腿付近で止まってしまった。彼女も思わず「あれ?」と馬鹿みたいな顔をして、自分の膝下で手を振りかざす。当然、本来遮るべき自分の脚はそこに無い。
「私ってまだ不幸なのかな」
「それか、未練があるとかじゃないかな」
 僕が言うと、彼女はまた顎に手を当てて下を見る。もう跡形も無く消えた自分のつま先を見つめるみたいに。
 やがて彼女はとあるものに視線を移した。その先を辿って見ると、そこにはピアノがある。僕は「残念だったね」と言った。なるべく、言葉に同情心を乗せながら。
「何も触れられない君の手じゃ、鍵盤は叩けない」
「じゃあ私は成仏できない?」
「そのまま中途半端なままで地縛霊になるかも」
「テケテケみたい」
 僕が「テケテケって何?」と訊ねると、彼女が「今の私みたいな状態の事」と教えてくれた。僕は「それは嫌だね」とだけ言った。
「でも、私がテケテケにならずに済む方法はあるかもしれない」
 彼女はやっぱり不機嫌そうに言った。まるで「それを実行するのは嫌だ」とでも言いたげに。
「私は何も触れない。つまり、誰も私には触れられない」
「うん」
「だったら、私と君が重なって、私の動きに合わせて君がピアノを弾けばいい」
「無理に決まってる」
「どうして」
「だって、僕はピアノを弾けない」
 僕は当たり前の事を言った。それはきっと、彼女だって分かっていたはずだ。だけど彼女は僕以上に、ごくごく当たり前のような顔をして「できるよ」と言う。
「だって君は、いつも私を見てた」
 僕の眼にはいつの間にか、彼女の手が映っていた。毎日毎日、僕が見惚れていた彼女の手だった。
 背もたれの無いピアノ椅子に腰をかける。どうしてそうしたのかは分からない。ただ、言葉で説明できる理屈だけが正しいわけではないのだと、信じてみたかった。
 いつも彼女が触れていた鍵盤に、そっと指を乗せる。その上から、彼女のボロボロになった手が重ねられる。何か言いたくて、僕は「前髪が邪魔だよ」と言った。彼女は頭を振って前髪を別けた。クリアになった視界に、重なった僕らの手が映る。
 知ってはいたけど、いつも眺めていただけのピアノを僕がそう簡単に弾けるはずもなかった。彼女の手が左へいくと僕はあわててそれを追いかけるのだけど、その時には彼女の手は既に右にある。「下手くそ」という彼女の笑い声が、僕の口から聞こえた。そんな僕の笑い声は、彼女の口から発せられていた。
 どれだけそうしていただろう。空の天頂にあった白い太陽はいつの間にか色を変え、赤くなって山に隠れがかっていた。僕はようやく鍵盤の順番を覚え、彼女の手に追いつけるようになっていた。僕の手と彼女の手は、完璧に重なっていた。
「楽しいね」
 彼女が言う。僕は少し迷って「そうだね」と答えた。
 黒鍵を強く叩く。視界の隅にあった、彼女の白い太腿が消える。ゆっくりと、彼女が消えていく。
「私の未練は、もうピアノを弾けない事なんだって、さっきまで思ってた。だから私は成仏できないんだって」
「うん」
「でもそれはちょっとだけ違ったんだって、今なら分かるよ」
 彼女の腰が消える。僕はそれに気付かないふりをする。
「多分私は、こうやって君とピアノを弾いてみたかったんだと思う」
「それが未練なの?」
「だって君は、いつも後ろで見てるだけだったから。一回くらい、こんな風に君と笑って鍵盤を叩いてみたかった」
 高いキーを出す為に、右腕を少し伸ばす。彼女とほんの少し位置がずれる。彼女の腹部が消える。
「もう無いのに、お腹が少しくすぐったい。これも幻肢痛?」
「多分」
「変なの」
 彼女に残っているのは、胸部、顔、それと、手。沈みかけの太陽と彼女が重なる。
 僕はふと思い立って、顔の位置を少し右にずらしてみた。ピアノは弾き続けたままに。
 目の前にある鍵盤蓋の裏に、彼女の顔が映る。彼女は笑っていた。「楽しそうに」としか表現できないような、どこまでも綺麗な顔で。
「君も笑うんだね」
 彼女の胸が消える。
「私も初めて見た。私の笑ってる顔」
 彼女の顔が反射している理由は分からない。別によかった。言葉で説明できる理屈だけが正しいわけではないと、証明できたから。理由なんて、「夕焼けが綺麗だったから」とか、そのくらいでいいのだろう。
「僕は君の手が好きだった。ボロボロで傷だらけで、かっこいいと思ったんだ」
 彼女の首が消える。でも、力強く頷いたのは分かる。
「だから、君にも好きになって欲しい。ピアノが楽しいと思えたなら、これまでの全てを、君に肯定して欲しい」
 赤色を反射する白い鍵盤。その上で重なって踊り続ける僕と彼女の手。彼女は笑いながら、「そうだね」と言った。彼女の顎が消える。
「好きだよ」
 彼女の口が消える。細まった目が、彼女の笑顔を伝えてくれる。
 重なる彼女の手はまだ動いている。二の腕がなくなっても、まだずっと動き続けている。鍵盤蓋に彼女の顔はもう無い。
「まだ終わらない」
 僕は彼女に向かってはっきりと言った。彼女はそれに応えるように、BPMを上げる。鼓動が唸る。彼女の腕が消える。
 同じ曲だけをループし続けていた。何十回、何百回と弾いた。それでも、彼女がこれまで弾いた回数に比べればずっとずっと少ないのだ。彼女の手首が消える。
 やがて、空は完全な黒色になっていた。僕は気付かないふりをしていた。彼女の手が見えないのは、僕の手と重なっているからだと。指を止めてしまえば、全てが終わる気がした。
 最後の一音を弾き終えた時、音が二つ重なった気がした。薬指をそっと離す。彼女の指は、もう無い。
 力の入らない足でふらふらと立ち上がる。幻肢痛などではない、確かな痛みが少し苦しかった。 
 僕の指先は紫色に変色していて、小刻みに震えていた。彼女のような手にするにはまだ足りない。いつかはボロボロで傷だらけの手になってしまえばいいと、乱暴に願っていた。