【自己紹介】飯原ってこういう人間なんです。。。

飯原は現在横浜国立大学経済学部2年生です。ひょんなことから横国グルメ(現:Unis'on)に参加することになりました。そのバックグラウンドをさらっと(5000字オーバー)書いてみました。
少々長いですが、お付き合いください。
それではどうぞ。


目次

  • 小学校まで
  • 中学
  • 高校
  • 浪人
  • 大学

小学校まで

小学校入学までは福岡で生まれ育ちました。
特筆することがありません。記憶に残っているのは、ラーメンばりうまか。

小学校は山口、徳島、香川を2年ずつで転校して過ごしました。
おかげで最低限のコミュニケーションはできるようになりました。
中学受験も親の勧めで受けました。
特に何も考えずに生きてきていたと思います。

中学は愛光中学という所に進学させてもらいました。
勉強は平凡で中の上といった所。


中学

中学は陸上部。足は遅かったです。
記録会とかは足の速い人から出たい種目に出れるので、僕はいつも不人気な400mや4種などしか出れませんでした。

中学2年と3年の時に文化祭でお化け屋敷の出し物を指揮しました。
うちの中学高校は文化祭が合同開催で、高3生を除く約1000人(一学年200人×5)が参加します。出し物は「パート」とよばれ、パートを取り仕切る代表は「パート長」と呼ばれます。母校では、パートはクラスごとではなく、自由にメンバーを集めて組むことができます。大体は部活毎に出し物をします。時々、仲の良い友達同士で「有志パート」を組んだりもします。また、中学に限って、どこのパートにも参加できない人を生まないために、セーフティーネットとして毎年ある程度決まった出し物をする「学年パート」と呼ばれるパート群があります。僕らの「お化け屋敷」も学年パートでした。

なので、人数こそ40~50人と最大規模のパートですが、集まる生徒たちは、日頃喋ったこともないような人々が男女関係なく集まってきます。当然コミュニケーションが課題になります。また、中学生ですからクオリティの管理も必要になります。詳しくはまたコラム的な記事にでも書きますが、中二の時のお化け屋敷は何も考えずにやったため散々でした。唯一みんなにお願いしたことは、「人で脅かすんじゃなくて、物で脅かしてね」ということぐらいでした。一応理由を説明すると、教室でやるため通路も隠れる場所も狭くなります、また、当然ですが、お客さんに触れるのは厳禁です。なので、バァ!と飛び出てもすぐその飛び出る勢いを止めて、お客さんに触れないようにしないといけません。それでは白けてしまいます。しかも、中高生はもちろん、小学生も遊ぶお化け屋敷ですので、お客さんははっきり言って非常に暴れます。「キャッー!!」って言いながらパンチなんて当たり前。しらけること防止と、演者側がケガしないようにという理由からのお願いでした。

結果は、開始1時間で脅す仕掛けの8割が破損。小中学生のパンチとキック、おそるべし。その後は、営業中に必死に裏で応急処置を施したり、急遽あまりものの材料で代わりの仕掛けを作成したり、どうにもならない所は結局、人で脅かしたりしてました。さすがにこれには僕も「マジか…」という感じでした。

リベンジの意味も含めた中3のお化け屋敷、中2の文化祭が終わった直後の1年前から計画をしました。教室の測量から始まって、近隣のお店で段ボールくれる所のリストアップと回収スケジュール計画、予算からの支出計算と当日の収入予想、文化祭直前3日間のパートメンバーの動き、遅れが出たときの調整、コース設定から壁(机を3段積みで形成します)の配置、当日のシフト組みに当日流す怖いBGMをCDに焼き入れ作成することなど個人的に考えるべきことは1年かけて徹底的にやっていきました。
初パートの集まりが新学期始まって6月、7月も期末試験でドタバタして、8月は夏休みで準備が止まります。夏休み明けて9月になれば文化祭は15日頃、もう目の前です。
すでに述べた通り、お化け屋敷は学年パートです。正直僕はパートメンバーを信じていませんでした。パートメンバーに対して行ったことは以下の通りです。①僕が事前に用意した2,3パターンのコースからみんなで一つに決める。②コースを6.7区画に分け、パートメンバーに好きな人(仲の良い人)同士で班を組ませて、1班に1区画を任せる。③班には班長を設定してもらい、物で脅かせばどんなものを作ってもいいという代わりに、班長に班員の監督をお願いする(厳密には「さぼる人がいても全然いいけど、脅かす仕掛けは作りきってね」とお願い)④仕掛けは必ず交換用にもう一つ作り、無理なら応急処置道具と材料も計算にいれて買っておき、レシート取っておいて後で、予算からの引き落としにするよう連絡。
当時はこの仕組みのメリットをすべて分かった上でやっているわけではありませんでしたが、今見ても我ながらよく出来てるなと思います。

結果は大盛況でした。10時開店の15時終了でしたが、200人弱が来てくださりました。
(シフトは一時間ごと、毎時冒頭10分はメンバー交代と修理の時間のため実質営業は50分×五回で、一度に1~2人づつ入ってもらい、一組当たり3~4分でクリア、時々10分クリア、一組ずつ2分は離して次のお客さんを入れるとしていたので、(50-4)÷2+1=24組(24~48人)、仮に40人とすれば、五時間で200人なのでほぼ最大値です。)

このお化け屋敷づくりで思い知ったのは、パートメンバーの中の真面目にやらないだろうなと思っていた人たちが、任せてみると意外と一番ノリノリで、自班の仕掛け案を、必要材料と必要予算までちゃんと調べ上げて、書き上げてもってきたこと、どの班も想像以上に気合を入れて仕掛けを作っていたことでした。
自分がデザインした仕組みで上手くいくのを見るのが嬉しいということと人に任せて上手く行くとこんなにも心地いいのかということでした。


高校

そのまま同高校に内部進学し、高1の時に文化祭実行委員会(通称:文実)の総務(総合雑務)に入りました。ここでも色々しましたが、記事で書くとして、ここでは割愛します。同時に生徒会にも入りました。これまた色々やりましたが、ここでは割愛します。

高2の時、有志でパートを作りました。それが「labyrinth」と銘打った謎解き迷路です。
実際はテントが足りず迷路などではなく一本道のコースになりましたが、区画ごとに色々な謎をストーリー仕立てで推測してもらい最後に答え合わせをするというものでした。
このパートの最大の特徴は、テントを使う出し物をグラウンドでやったことです。これまで直近少なくとも10数年、ペットボトルロケット試射会はありましたが、テントを使ったグラウンドでの出し物はありませんでした。というか許可されてきませんでした。それは安全性の問題からです。体育教師の方々を「こういう安全策を講じてやっていきます」と説得するのは非常に骨が折れます。毎日昼休みか放課後、体育教師室に顔を出して改善した案を持って説得か相談をしていく日々でした。実際には当時父と同じ病院にいた放射線技師の方の母校が愛光高校で約15年ほど先輩に当たる方から「僕がいた当時はグラウンドでの出し物があったよ」って言っていただいたことが関係各所を説得する心強い味方になったというラッキーもあったりしました。

このlabyrinthパート、結果は珍しさも相まってか、そこそこのお客さんを集めました。
一番嬉しかった、一番文化祭を知っている文実の先輩方(正確にはすでに卒業しているため元文実の先輩方)に多く来てもらったことです。いかに学生にとって難しいパートだったか理解してもらえたようでした。


浪人

その後、大学受験期に入り、受験をした結果、浪人しました。
突然ですが、父は病院勤務医、母は看護師でした。
中学では何もやりたいことなど見つからず、それは高校に入ったからと言って見つかるわけでもなく、「やりたいこと」ってなんだよ!とそこから自問自答をしていました。
(大学に入った今でも「やりたいこと」ってなんだよと思っています。)
漠然と親と同じ医者を目指すと暗黙のうちに共通認識になっていましたが、文理選択の際に、理系にはやりたい仕事がないと思い、「文系に行く」と伝えると「なら東大に行け」と父に言われ、行きたい理由もなく目指すことになりました。

よくある話ですが、母校は、誰も明言はしませんが、やはり雰囲気のうちに、学力のみが生徒の価値を決め、学歴だけが将来を助けてくれるという認識があったと思います。
はっきり言って明らかに見識が狭かった。母校は母校で卒業生による講演を定期的に行うなど見識を広める機会を用意してくれていましたが、愛媛の片田舎で勉強だけをして生きている生徒の僕には、どうも実感として理解することはできなかったのです。

結果、学年200人中万年40~50番だった僕は、前期東大に落ち、後期一橋に至っては足切りで落ちました。初めての挫折らしい挫折でした。
親にはもう一度「東大を目指す」と願って、家族を愛媛に残し、北九州の河合塾で一人暮らし浪人を始めました。祖父母宅が近かったため北九での浪人の許可が出ました。

そこからは、両親には大変申し訳ないのですが、上半期は真面目に塾に通っていたのですが、下半期はまともに塾に行きませんでした。
その理由は、なんとなく「ちゃんと詰める所を詰めきれない性格もあって、さすがに東大は無理っぽいな」と思い始めたことと、この時期になってようやく、スマホやPCにも慣れ、「ググる」ということを覚えました。色々なことを受験勉強の合間に調べたり本屋に通ううちに、「ああ、(なんとなくは知ってたけど)学歴がすべてじゃないんだな。大学でより頑張らないといけなくはなるが、必ずしも東大行かないと望む未来が手に入らないわけでもないんだな」と実感することができて、「なら現役の時からずっとA判定をもらってる横国でもいいか」と方向転換できたためです。
「学歴がすべてな訳ないだろww」と思われるかもしれませんが、当時は本当にそのものさしがすべてだったのです。すべては言い過ぎでも、思考の大部分を占めていたのは確かです。


大学

そういうわけで、1年浪人後、前期で横浜国立大学経済学部に入りました。
当然「大学で人より頑張らなくてはいけない」と思っていたため、試しにプログラミング(Python)の基礎を勉強してみました。そしたら面白いのなんのって。
未だに「ヤリタイコト」の意味は分かりませんが、やってて嫌にならないことである事は分かりました。だから今は、将来最低限これで食っていこうと思っています。

そして2020/3/3横浜国立大学が入学式の中止を発表しました。
国大生は毎年、大学から離れた関内のホールでの入学式のあと、A4 50枚くらいのサークル部活の勧誘チラシの束を渡されます。
「それが今年が渡されないのかあ」と思い、勉強して簡単なwebサイトでも作ってみるかなとHTML/CSSを勉強して2020/3/29にサイト「YNU-BASE」を公開しました。

ある種趣味、ある意味慈善活動のような形で、サイトに簡易的にサークル・部活の紹介を載せ、Discordがコミュニティとして使えることを知っていたので、Discordサーバーを立てて人を呼び、オンライン新歓イベントを行おうとしました。
結果的には、横国界隈で同じように何か企画しようとする人々が何グループかあり、その中にはDiscordを使うグループも複数あったため期せずして、新入生にとっては無意味に競合してしまっていたため、YNU-BASEが立てたサーバーは一度放棄して、当時すでに3日で240人集めていた横国グルメ(現:Unis'on)という団体のサーバーを整備し、誘導することにしました。具体的には横国グルメの方々はDiscordに明るくなかったため、代わりにサーバー管理やbot導入、チャンネル管理などを請け負う形になりました。結果的に現在1300人ほどが参加しているサーバーにまでなっています。(残念ながらアクティブ数は多くありません。理由として新歓期が過ぎたことと、運営全員が無給の善意でやっていたため、継続性がハナからなかったことが挙げられます)
サーバーの所有者である横国グルメ(現:Unis'on)は実現したいビジネスがあるということで、いつまでもサーバー管理に時間を割いていられないとのことで、おそらく交渉すれば、YNU-BASEが利害を損ねない範囲でサーバーの管理権を委任してもらえると考えています。

よって、サイトとサーバーの管理権を元に、YNU-BASEというサークルを作り、学生のプラットフォームにしようとして今日に至ります。

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