まえがき 〜ヤドリバエ科について〜

1.ヤドリバエ科について

ヤドリバエは, 昆虫綱双翅目ヤドリバエ科に所属するハエです.
双翅目(ハエ目)のなかで最大の分類群の一つであり, 2020年のチェックリストによれば世界中から8,592種が確認されています(O’Hara et al., 2020).
ヤドリバエ科の種のほとんどは, 捕食寄生性を有し, 幼虫期の間, 蝶や蛾の幼虫をはじめ甲虫・バッタ・カメムシなど様々な昆虫の身体を蝕み, 栄養を得ます.
芋虫や毛虫を飼育したことがある人は, 途中で幼虫や蛹が死んでしまったりして, わけのわからないハエが出てきた経験があるかもしれません.
その正体が, まさにヤドリバエです.

外見は, 家の中にしばしば出没する大型蠅類(イエバエ科やニクバエ科)などと比較的似ていますが, 胸部背面の黒色縦線が偶数本あることや, 腹部の剛毛が針状に鋭く長いのが特徴的です.
           ↑Phorinia flava ♂

と言いつつも, 例外も多いのが事実. 胸部の黒色縦線が無いヤドリバエや, 剛毛の目立たないヤドリバエなどもいます.
体長は, ハエにしてはやや大型の種が多いですが, 中には2 - 3mm程の小型種もいます.
体色も, 灰色の種から 緑色の金属光沢を持った種まで非常に多様です.


2. ヤドリバエの同定について

ヤドリバエ科の分類学的研究は, 他の生物と比べて, 著しく遅れています.
その理由として, 次の四つが考えられます.
 
 ①ヤドリバエというマイナーな昆虫に興味を持つ人が極めて少ないこと.
 ②同定する上で, 極めて高度な専門的知識を要すること.
 ③同定作業が, 地道で苦労を要するものであること.
 ④先行研究が極めて少ないこと.


まず,①について.ヤドリバエ好きがあまりにマニアックすぎるという問題があります(笑). そもそも, 双翅目が好きな人自体とても少ない. 

昆虫の中で特に種数が多い分類群が5つあるのですが, それらのことを「5大目」といいます. 具体的に列挙すると, a. 鞘翅目(甲虫) b. 鱗翅目(蝶・蛾) c. 膜翅目(ハチ・アリ) d. 半翅目(カメムシ・セミなど) e. 双翅目(ハエ・カなど) です.


この5つの中で圧倒的に人気度が低いのが双翅目なのは言うまでも無いでしょう.
双翅目を研究しようという人はもちろん, その中でもヤドリバエを研究しようと思う人は希少だし, かなり変人です(笑).
これが, この分野の研究が進まない最大の理由と言えるでしょう.

次に,②及び③について. 蝶や大型甲虫, トンボなどであれば, 体色・模様・体の概形・体長などを見ることで容易に種類を判別できるケースがほとんどです.
しかし, ヤドリバエを同定する場合, そうはいかないんです. これらの形質を頼りにすることは滅多にできません. 体色や模様などの形質では判別できないほど似通った種類が多く存在するためです, そして, 同種内でも個体間の差異がそれなりに大きいためです.

では, ヤドリバエの場合, どのような形質を用いて同定するんでしょうか.

答えは, 身体に生えている “剛毛”の本数・位置・長さ・角度や, 交尾器の形状です.
驚くべきことに, ヤドリバエの身体に生えている “剛毛”には, それぞれ名前がついています.
 ↑頭部を側面から見た身体の部位のみ示した. つまり, これらは, ヤドリバエの形態用語のごく一部にすぎません...

同定の際には, 双眼実体顕微鏡を用いて, このような“剛毛”の様子を一つ一つ細かく精査しなければならません. ただ, 剛毛は, 取れたり折れたりしてしまったり, 変異のせいで本来よりも毛の本数が増えてしまっていたりというケースもあり, そういう場合は, 時によっては, 同定が大幅に難航します.
ヤドリバエの同定は非常に厳密です. 例えば, 「〇〇剛毛の生えている角度が水平に対して30°〜60°の間であるかどうか」とか「頬の高さが複眼の高さの0.25-0.27倍かどうか」のようなことまで調べます! びっくりしますね! 
さらに, ヤドリバエは種数が非常に多いですから, まず属を判別するだけでも, 549個のcoupletを持つ検索表を用いて同定を行います. 慣れていない人がこれを行うと, それだけで何時間も要することになるでしょう(汗).
加えて, 日本語で書かれた図鑑や文献はほぼ皆無なので, 英語や中国語, 時にはロシア語やドイツ語の学術論文や書籍を読み漁ることになります
[↑僕が第二外国語でロシア語を選んだのはこういう理由です].
その中には, マニアックすぎて入手が非常に困難なものも多いです
(「中国蝇類」や「определитель насекомых」 などなど...).

そのため, ヤドリバエの分類学的研究を行うためには, このような専門的なヤドリバエの形態用語を熟知し, さらには, 地道な作業を厭わず続ける忍耐力が必要です.
相当“ヤドリバエ愛”が強くなければ続けられないことです.
このように, ヤドリバエの同定はたいへん難易度が高い.

最後に, ④について.先行研究が少ない中で, 研究を行うことは, まさに暗中模索. まだまだ新種が膨大にいることが予想されるため, 自分の手元にある標本が既知種であるという保証はありません.その個体が既知種と同一と判断して良いものなのか, それともあらゆる既知種とも異なるのかを判断するのは極めて難しいことです. 研究が進んでいないという事実が, さらに研究を遅らせる悪循環を引き起こすのです.
 
これらの理由から, ヤドリバエの同定ができる人は, 専門家とアマチュアを合わせて,日本国内では, 多く見積もっても20人程度ではないでしょうか?
(私が知っている範囲では, 自分を含めて8人です)
専門家としてヤドリバエの分類を研究しておられるのは, 国内では嶌洪氏と舘卓司氏のたった2名です. 全世界を見ても, ヤドリバエの分類を研究をしているのは, 他にCerretti氏, O’Hara氏, Tschorsnig氏, Crosskey氏, Chris氏などと比較的数が少ない.

ただ,ヤドリバエの研究が遅れているという現状は, 逆に, ヤドリバエ研究の魅力と読み替えることもできます研究が進んでいないため, 上にも記した通り, 新種が山ほどいる!と予想されるのです. 自分で新種を記載するのも全然夢ではありません. 実際, 自分も, 未記載種と思われる個体の標本を手元に数個体持っています.
 
ところで、ヤドリバエの分類なんて調べる意義は有るのか?と言われそうです.
正直, 私がヤドリバエの研究をしたいのは, 自分がヤドリバエ好きで, 意義の有無以前に純粋にヤドリバエの分類が楽しいからというのが本音です. ただ, このような研究に意義が全く無いわけではありません. 
それは, 嶌・篠永(2014)から引用すると, 
ヤドリバエは,一部をのぞきそのほとんどが幼虫時代を他の昆虫類の内部寄生者と して成長する捕食寄生者であり,地域生物群集の調節に大きな役割をはたしているものと考えられる. またそのために,ヤドリバエ科は,寄主となる地域 昆虫群集の多様度を知るうえでの大きな目安ともなりうる.
ということです.
つまり, ヤドリバエはある地域の生物多様性の指標生物と言えるのです.
(終)


ヤドリバエ(Tachinidae: 愛称 たきにぃ)...
とっても多様性が豊富な昆虫...とっても同定が難しい昆虫...
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参考文献)
嶌 洪・篠永哲, 2014. 皇居のヤドリバエ相. 国立科博専報(50): 447-457
O’Hara JE, Henderson SJ, Wood DM. 2020. Preliminary checklist of the Tachinidae (Diptera). Version. 2.1 [PDF document].



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虫キョロリス