💐はじめに
#Blacklivesmatter
私たちimIのメンバーはこれについて個人で考えること、みんなで話し合うことに、本当に本当に本当に時間をかけました。これは全員にとって変わらない事実だと思います。
このムーブメントが普段に増して熱くなっていたのは(もしくはなり始めたのは)5月のことでした。一方で、私がこの文章を執筆している今日は7月です。もしかしたら、今さら?と思われてしまうかもしれません。
けれど、このムーブメントをファッションとして消費するのではなく、時間をかけてでも私たちそれぞれが考えるべきところまで考えつづける。
これは、私たちの第一かつ最大の論点であった「imIとしてこの話題にどのように言及し、発信するのか。本当にするべきなのか。そもそも私たちは何のために発信するのか。」という根本的なテーマが生み出した姿勢です。今思い返すと、あの議論は大変意味のあるものだったと感じます。
💐私が今考えていること
私たちはみんな平等。多様性は認められるべき。たしかに私はいつも、どこでも、このような言葉を聞いてきた気がする。それらがなんだかハッピーな言葉に聞こえることも多い。
だけど、私が今、自分がこの問題に向き合うためにやるべきだと思うのは、そのようなフレーズを復唱することではない。肌の色の違いを気にしないのではなくて、正面から自分の目で人の肌の色を見ること。つまり、差別の歴史から現状まで、その実態を正しく知ること。そして、差別の存在を認識すること。
Alllivesmatter=「すべての命が大切」や、Color blind=「肌の色を、人種を意識しない」という言葉は「差別がない。公平だ。」という意味にはつながらない。むしろ構造的な差別を蔑ろにしてしまう危険性を含む。この事実は大前提であるとしても、改めて注目すべき大切な点だと思う。
そして、自分の無意識の加害の可能性を認め、当たり前のことだが、単純に、間違えていたらちゃんと直したい。というのも、言葉の難しさに改めて気付かされたからだ。言葉は、何かを訴え、誰かの味方になる自分を表明する手段であると同時に、意図せずに差別で誰かを傷つける道具にもなってしまうようだ。
アンチレイシズムを掲げながらも、私がその差別の加害者になる可能性は0でないということ。つまり、人種差別に関わる、立ち向かう、向き合う私たちの、口にする(べき)言葉の難しさ。この気づきがBLM×imIに向き合った期間で私が得たものだと思う。
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問題に本気で向き合おうとして、正直、本当に難しいと思った。
人間はみんなの命が大切だけど、この問題の中では“最適な表現”ではなくて。
声を上げないことは差別を容認することだと言われるけれど、声をあげる時はそのやり方、言葉に十分気を付ける必要がある。
私が差別は許されないと信じていても、自分の中に思いがけない差別意識がないと言い切れるのか?
利己的な動機、同情でこの問題に向き合うことはするべきでない?けれど、あくまで“日本人”である私が差別を受ける彼女ら彼らの痛みを本当の意味で理解することができないのではないか。だとすれば、、?
考えれば考えるほど、複雑な気持ちになった。未だ、何をしたらこの現実が改善されるのか、私にはわからない。だけど、私がこれから、この問題の解決のために何もしなくていい理由はない。
難しいけれど、少し気まずいけれど、自信はないけれど、それでも、だからこそ、現実と向き合うことからは逃げたくないと思う。
Black Lives Matter
NANA(imI)