1961年(昭和36年)5月5日に富山県小矢部市の農家の三男として生まれる。
小学校2年生の時、親戚の馳家の跡取りとして養子となり、金沢に住むようになる。
幼少期は田舎育ちの腕白坊主で、野山を駆け回り、川で泳ぎ、田んぼを突っ切って小学校に通っていた。生家での生活はお世辞にも豊かとは言えなかったが、この頃から自分の将来を見据え、自らの意志で養子に行く道を選んだ。
中学生の頃、国語の先生に憧れ、自分も教員になろうかと考える一方で、途絶えていた相撲部を復活させて格闘家としての素質が出てきた。
中学校校舎の火事をきっかけに、「なんのための学校か、受験勉強のためだけなのか、本当に大事なものは何なのか・・・」と考えるようになり、先ず初めに起こした行動が、生徒会長への立候補だった。
「僕が生徒会長になったら、毎朝、一番に登校して学校中を掃除します!」
学校行事もやる気満々、先頭に立って引っ張る馳浩は、見事人生初の”当選”を果たす。
星稜高校時代は、星稜高校の野球部を率い、甲子園で準優勝まで遂げた山下監督に野球部にスカウトされるも、3年間レスリングに明け暮れた。高3の昭和54年8月16日、星稜野球部が夏の甲子園で強敵・箕島と延長18回の死闘を展開した時、馳浩はレスリング部合宿でテレビ観戦して発憤した。
その10月、宮崎国体で優勝を果たし、アメリカ遠征にも行け、最初の夢である「運動選手になって海外にいく」という夢を果たした。
昭和55年、専修大学文学部国文科にスポーツ推薦で入学。かねての希望通り、入学金、j業料免除であった。
厳しい体育寮に入り、コーチの松浪健四郎教授(元衆議院議員)の指導でめきめき力をつけ、大学2年生でジュニアチャンピオン、4年生で学生チャンピオンになった。
卒業後は、母校星稜高校の教団に立ち、国語の先生となった。
「源氏物語」や「古今和歌集」を詠み説く毎日で、学生の頃から日本文学風土学会の会員となり、京都、奈良をはじめ全国の文学、史跡を巡り、完成させた卒業論文は高い評価を得た。
レスリングでは、学生時、全日本選手権だけは2位が続いたが、卒業後の昭和59年5月5日の誕生日に初めて優勝し、ロサンゼルス五輪への出場を決めた。
その後、政治家となり、参議院議員、衆議院議員として文部科学大臣、自民党広報本部長などを歴任し、また2020年は在職25年を迎え、永年在職議員として表彰された。現在は自民党政調会長代理として党内の政策全般の取りまとめを行っている。