親から聞きましたが、私は言葉を話すのが遅かったみたいです。ふらふら〜とどっかに行っちゃったり、それで泣いてでもくれればいいものの、滅多に泣かない子だったらしいです。食べるよりも周りのものに興味があって、じっとしていられず、椅子には母お手製のシートベルトが必須だったみたいです。よく家の引き出しを全部開けちゃって怒られていました。包丁を笑顔で持っていたのを台所で見た時は血の気が引いたと母が言っていました。飛んだ恐ろしいやつです。
3歳の時は、自分がセーラームーンだと思い、喧嘩してる2人の男の子の間に入って最終的にその2人の男の子を泣かせ、母が謝っていたらしいです。正義の塊でした。年中さんの時、横浜から静岡に引っ越してからはなんとまあ驚くほど静かで大人しい子になりました。幼稚園の時に読んでいたお寿司のキャラクターの文字がない絵本は今でも覚えているくらい読みまくっていた覚えがあります。
小学生の頃は、テレビでランウェイを歩くモデルさんを見て、めちゃカッコええ!と思って真似していたら、内股が悪化し、2年連続保健室通いNo. 1に輝きました。その時のあだ名は転びちゃんでした。おじいちゃんがこの子はこんなに傷だらけで病気なんじゃないか!?と騒ぎ始めたのでバレエを始めました。その頃ピアノも習い始めましたが、すっごく楽しかったのを覚えています。バレエは、花が散るのを想像して手を動かしてみてとか、タコみたいに手足を動かしてみてとか、先生がとにかく変わっていましたが、表現の自由を教えてくれました。小学生になっても、言葉で伝える事は苦手で音楽とダンスが私の言葉になっていました。
高学年の時は友達と上手くいかず、毎日泣いて喧嘩してました。私は売られた喧嘩は買っちゃう人だったので、いじめ、というかあれは喧嘩でした。今振り返ると、やっぱり子供だったなあと思います。相手の立場でものを考えることの大切さを学びました。
中高一貫に受験をして入ってからは、毎日が楽しかったです。なんで受かったのかは大学同様、今も分かりませんが、とりあえず御先祖と受けさせてくれた父と母にお礼をしときます。
中学二年生の時に打った子宮頸がんの予防ワクチンでまた私の人生観は変わりました。副作用で1ヶ月ほど麻痺して手足が動かなくなったり、腰痛が酷くて座れなくなったり、病院に行って沢山検査をしても異常なし。最終的に精神的なものと言われて終わりました。精神的な病気でここまで症状がでるのでしょうか。いつ治るか分からない病気に急になるのは本当に怖くて、なった時はいつ治るのかが本当に分からなくて不安でいっぱいでした。
でも、私はその時に支えてくれた家族や友人、先生がいてくれたので凄く心強かったし、幸せ者だと思っていました。もし、副作用で苦しんでいなかったら親や友人のありがたみも周りの人に支えられて自分が生きていることも、1秒1秒元気で生きられることの大切さも気づかなかったと思います。
大学1年の頃から所属するアロハダンスサークルとして地域の方々と交流し、地域のイベントの出演する事を通して、イベントや街がもっと盛り上がったらいいなと思い、始めたのがインスタグラムでの群馬県広報活動です。
やがて、その活動に群馬県広報課の方が興味を持ってくださり、群馬県広報課公認として活動。今は16人のチームのリーダーとして、それぞれにやりたいことや苦手なことを聞き、みんなが楽しく、やりたいことができるマネージメントをしています。