あかね
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ヒストリー

出身地

大阪府

幼少期の暮らし、体験

 いつも明るく元気にという想いを込めて、と朱音名付けてもらいました(=´ ∞ `=)

 名前の通り、幼少期はいつも元気で明るく、父や母、姉と一緒に家の前で遊んでいたことを覚えています。あと、常に何かを食べている子どもでした…笑 食欲が旺盛で、ぷくぷくしていて可愛かったそうです!自分で言うのもなんですが…!

 幼稚園では、先生からの印象が良くて、母から聞いた話では朱音ちゃんはいつも泣いている子のそばに駆け寄って慰めてくれているんです』と言ってくれていたそうです。昔から世話焼きさんだったみたいですね(´∀`)

 小学校の話はなかなかに濃く、私がこの団体に参加したきっかけとなる出来事が起きました。小学1年生は新任の先生だったことから学級崩壊を起こしていて、私は学校に行くのが嫌で腹痛に悩まされるようになりました。この頃は兎に角学校に行くのが嫌だったと言う記憶しかありません。

 私は父の転勤で、小学2年生から神奈川県川崎市に住み始めました。そこの学校が肌に合っていたのか、すぐに馴染むことができました。また、毎年学年が上がるごとに、『この学年が1番楽しい!』と思えるような生活を送っていました。家の前に公園があったので、学校終わりにクラスのみんなと遊ぶのも日課になっていたのが懐かしいです(*´ー`*)

 しかし、元々決まっていたことなのですが、父の転勤は4年間で、私は元いた家に戻り、学校も1年生の時と同じところに通うようになりました。それ自体が嫌だった訳では無いのです。小学6年生の時に起きたことが不登校のきっかけとなりました。

 私が住んでいた川崎市の地域は歌に力を入れていて、その学区の中学では校歌が三部合唱で、何度か聴いたことがあるのですが、とても綺麗な歌声だったことを覚えています。そういうこともあり、私が通っていた小学校も歌の練習に力が入っていました。なので、私も合唱については(自分で言うのもなんですが)、他の人に見劣りしないほどには上手でした。

 しかし、大阪府で通っていた小学校は自称、歌に力を入れている学校で、小学6年生にまでなって『大きな声で歌いましょう』という目標が掲げられていました。まず、私はこの差に驚いてしまいました。驚いただけならまだ良かったのですが、音楽の授業の時に私の声が他から聴いて異質なのか、歌っているだけなのにこちらを見られるようになりました。特に、ニタニタとした男子の視線がとても嫌で、私は言葉では言い表せない嫌な感覚に陥りました。

 これだけで済めば良かったのですがまだあります…。もう少しお付き合いください。みなさんは方言の違いをどこまで気になさりますか?これを読んでいる方は「多様性」を大切にしていらっしゃる方が多いと思いますので、あまり気にならないとお答えされるかもしてません。ですか、小学生というまだ幼い子どもには、喋り方が違うというのは大きな違いだったようでした。

 元いた学校に戻ったということもあり、はじめから友だちがいました。幼稚園や1年生の時の子たちです。この子たちが、善意なのは分かっているのですが、私の言葉のイントネーションの違いを毎度丁寧にいちいち訂正してくれるのです。余談。悪意のあるものもありましたが……。散々ネタにされて、今でもその言葉のイントネーションが分からなくなってしまいました。話に戻ります。私は訂正される度に、自分を否定されたような感覚に陥り、どんどん自信がなくなっていきました。喋ることが怖かったり、人に口を見られるだけで不安になったりするようになりました。この頃は2日に1度学校に通えればいい方で、昔からそうだったので弱いのであろうお腹が痛くなり、学校に通うことが難しくなりました。でも、この頃はまだ不登校だとは思っておらず、実際、この後にきっちり不登校になります。


中学・高校時代

屋久島おおぞら高等学校

 中学校に入る前の春休みについても少しお話しさせてください。あの短い間にストーカー被害に遭いました。びっくりですね。相手は同じ小学校の男子で、内容としては頻繁なメール・電話です。しかも、「俺お前のこと好きかも知れんねん。」とか言ってて、いや知らんがなと、思えればよかったんですが、そういう状態に陥っているのをなぜか家族にバレたくなって、携帯電話を隠すのに必死になっていました。携帯を眼鏡ケースに入れて引き出しにしまっていました。この後しばらくは携帯が怖かったですし、去年までは電話音がダメでした。あと、ただのストーカーじゃなくて若干のいじめだったんだと思います。電話の先に何人もの男子の声が聞こえたので…。反応を見て楽しんでいたんでしょうね。やな奴です。更にそいつと中学1年生では同じクラスになりました。神様なんていないんや…。声を聞いただけで吐き気が止まらなくなるので、何度かトイレに駆け込みました。助けてくれる友だちが多くいたことが救いです。一生忘れてやりませんが…!

 さて、そんな楽しくない話は置いておいて。中学校に入ってからはなんとか体調を持ち直し、前年度が嘘だったかのように学校へ行けるようになりました。部活は陸上部に入り、毎日楽しい日々を送っていました。が、それが続くならさっきの不穏な文章は無いですよね…。私は1年生の頃、「家の自分」「部活の自分」「クラスの自分」の3つを使って日々を過ごしていました。なんとなく雰囲気が変わる程度のものです。

 中学2年生の時、陸上部の友だちと同じクラスになりました。1年生のときには無かった状況です。これのせいで、「部活の自分」と「クラスの自分」がごちゃ混ぜになってしまいました。しかも一緒に行動してる子たちの中に部活の子がいました。もうどうやって話せばいいのか分からなくなってしまって、結局はそれで自分を見失い…?追い詰められて、因縁のある歌関連の合唱コンクールの日に倒れました。保健室に行ったら訳も分からずに涙が出てきたのです。今でもよく覚えています。体調も悪かったので、行かなかったらよかったのでは?と思ったこともあるのですが、母が「その時朱音、小学校の卒業式で知ってる思い出が少ないことを気にして、中学の行事は頑張って行くって言うてたよ」と教えてくれました。

 倒れた日の翌日からは「一日中布団から動けない」生活を送り始めました。朝は起きられない。そのせいで夕方まで布団に入ったまま。でも夜は眠れない。こんな生活を2ヶ月ほど続けました。でも1度だけ、水泳の授業の補講に行ったのです。覚えていることは、何もかもが怖くて更衣室で耳を塞いでしゃがんでいたことだけですが。

 起立性調節障害・自律神経失調症・不眠症であると診断されました。今でも治っていません。

 この辺りから記憶が曖昧になっているので、詳しくは書けません。人間、嫌なことをいつまでも覚えていないようにシステム化されているのでしょうか?いい機能ですね。

 少し体調がマシになったのは、「気功」の病院に通い始めてからです。その後、中学3年生は、内申点のためにしっかり通いました。(今は制度が変わりましたが、この時は3年の点数だけで内申点が決まっていました)。今思うと奇跡です。

 ですが、ずっと行きたかった枚方高校に受かったと同時に体調を崩しました。結局通えなくて、1年目は主席日数の都合上5月で断念。ちなみにこの頃からは「鍼」に通い始めました。断念してからは家で掃除を趣味にゆっくりと過ごしました。

 2年目に入って、友達もでき、5月半ばくらいまではお昼寝から登校したり、もうほぼ全ての授業が終わっている頃でも登校したりしていました。ですが、限界を感じて、6月には通信制のサポート校に転入することを決意しました。

 転入したのはいいものの、2日通うコースなだけなのにほぼ行けず、ただ卒業に必要な単位だけを取りました。もっと遊んでみたかったのですが、ままならないものですね。人狼が流行っていたので、やってみたいなぁと思っていたのが心に残っています。

 単位だけは取ったので、本来私が卒業する年で卒業することはできました。ただ、勉強をしていなかったので、1年浪人して塾に通いました。国語の現代文は全く問題なかったのですが、古典と漢文はやったことがありませんでしたので1からの勉強です。英語も中学の時の先生の教え方が下手で、私の学年は英語が壊滅的で、それを引きずったままだったので、単語も文法も1からの勉強です。歴史は独学で1から…、とにかく内容がいっぱいでした。ただ、体調が悪いのは継続中です。そういえば、塾に通い始めた頃から「心療内科」と「カウンセリング」に通い始めました。今所属している心理学科に興味が目覚めたのはここからですね。自分のことをカウンセリングするために大学に通いたかったのです。


大学・専門学校時代

大阪人間科学大学

 そんなこんなで大阪人間科学大学に入学しました。健康心理学科を選んだのは、先ほど述べたように自分のカウンセリングを求めてです。元気になった時のことも考えて、健康時の維持も研究している健康心理学科にしました。

 今2年次生なのですが、去年はとても楽しかったです(=´ ∞ `=)今も、勉強も人付き合いもとっても楽しいです!

 入学してすぐ行われたサークル紹介で、「起立性調節障害」を対象とした居場所支援を行なっているサークルに出会いました。ここだ!と思いすぐに入部(?)しました。障がいに持つ子どもに接したり、それらの講義を受けたり、自ら企画を立てて実行に移したりと、さまざまな経験をしました。先輩も素敵で、同期もいい人が多くて、私の中でとても大切な思い出として残っています。

 ですが、去年の秋に辞めてしまいました。理由は冬の方が圧倒的に体調が悪くなるからです。活動なんてもってのほかで、学校に通うことすらギリギリの状況を保っていました。単位を取るのは簡単なのですが、学校のスカラシップ制度に当てはまっていたので(入学試験の点数で決まるやつです)、GPAを少しでも落とさないようにするのがとても大変でした。ちなみに、なんとか大丈夫でした✌︎('ω'✌︎ )

 その後、今の団体に入った経緯としては、もともと不登校であったことから、不登校支援にも興味があったからです。起立性調節障害の支援である「フキノトウ」という活動は、当事者として参加しても良いと言ってもらえたので、元のサークルに戻らず、Crocusに入りました。入ってすぐにコロナ騒動が起きて、まだ私はまともに活動ができていませんが、落ち着いてきた今、これから尽力していきたいと思っています!


 ちなみにですが、自分のカウンセリング目的で入学したじゃないですか。無事に今まで辛かった謎などが解けて、メンタル面ではとても良くなりつつあります。もし今悩んでいる人がいれば、そういったことを踏まえて大学を選んでみるというのもありかもしれませんよ。

職歴

バイト歴

デパートのお惣菜売り場→うどん屋→ガイドヘルパー(なう)