3歳のころ父の仕事の都合により渡米しテキサス州に約2年間滞在していました。幼くして海外への渡航経験を得た訳ですが、2つ上の姉が現地の学校で英語を習得したのに対し、私はほとんど英語を話すことができませんでした。幼過ぎました。
姉との英語スキルの差がコンプレックスになり、それが起因し小学1年生からは6年間英会話教室に通っていました。とカッコつけた理由ですが、週に1時間ほどの教室だったため学校の英会話の授業で若干イキれる程度でした。
英会話の他には水泳も6年間やっていました。こちらも学校の水泳の授業でイキれる程度でしたが。2012年春、中学1年生になり何か新しいことをやりたくて野球部に入部しました。毎日の放課後の練習に専念するために英会話と水泳教室はやめました。まあ多分当時の本音はただただ英会話も水泳も嫌だっただけだと思いますが。そんな矢先、突如として両親から家族でまた渡米すると告げられました。今回はどうやら前回のように日本に帰る予定はないようで、つまりアメリカに永住するかも知れないということでした。戸惑いはしたものの、幼少期のリベンジを果たすチャンスだと考え、前向きに捉えました。
2012年秋、再度テキサス州に移住しました。小学生時代に英会話教室に通っていたものの、日本の学校でイキれる程度の英語力ではとても意思疎通できず、授業の内容もわからなければ出された宿題がどれなのかもわからない状況でした。そんな中で当時唯一会話ができたのは、日本語が話せる中国の子でした。なんでアメリカに住んでいる中国人が日本語を話せるのは謎でしたが、ともかく英語になれるまでの間かなりお世話になりました。
また1週間のうち月曜日から金曜日は現地のバリバリ英語の学校に通っていた訳ですが、土曜日にも日本人だけが通う学校に通っていました。おかげでホームシックにならずに地道に英語を学び続けることができてました。当時の私にとっては週休1日であることよりも日本語を話せる場所があることの方が大きなことでした。
時は流れて英語に大分慣れてきた2014年冬、姉が所属していた学校のバンドの表彰式に参加しました。姉が幼い頃から続けてきた木琴の技術が評価され表彰されているのを会場の席から眺めていました。自分よりも英語が話せる姉が、自分が習い事をやめる中で続けてきた習い事で評価されている、姉にすべてにおいて上をいかれた気分で、コンプレックスが爆発しました。つらいね。
帰宅してから、部屋で泣きじゃくる私に気づいた父が慰めてくれました。父も姉のような突出した才能も技術も持っていないと話します。そしてそういったものを持たなければいけないわけではないと言い、こう続けました。「浅く広く、いろんなことができるのも才能だ。」なるほど。この言葉を聞いたときから私はジェネラリストを目指し始めます。
平日は現地の学校に、土曜日には日本人学校に通う週休1日の生活を送り続けていました。現地校では陸上部や野球チームに所属しながらも選択制の授業では中高6年間通して美術のクラスを履修。日本人学校では中学2年から高校3年まで生徒会の役職に就き、生徒会長も務めました。また毎年夏に開催されるヒューストンの日本人学校とのソフトボール大会でもキャプテンに任命されました。文武問わず色々なことにトライしました。
高校2年生頃からアメリカの大学へ進むための勉強を始めました。しかし2018年春、高校3年生のときに父が転職し日本へ帰国したことから日本への進学についても考え始めました。悩んだ末に今までのアメリカの大学向けの努力はシンクコストと割り切り、日本語での自分自身の能力測定と大きな環境の変化を求めて日本の大学を受験することを決断しました。同年の6月に帰国し、約6年間のテキサスライフに終止符を打ちました。受験勉強再スタートです。
帰国してからは毎日予備校へと通い続ける日々が続きました。そこで友達と勉強をすることの素晴らしさを学ぶことになります。今まで勉強は塾や家、学校でも基本ひとりで行い、友達とはただ遊ぶという関係性を築いてきましたが、対して予備校では授業終了後も部屋に残りみんなで勉強を続けてました。お互いがお互いの苦手を補完しあい、苦手をなくす。独りよがりにジェネラリストを目指していましたが、もしかしたら人と補完しあうことでより成長できるのかもしれません。
予備校では特別優秀なわけではないクラスに入っていましたが、補完し合いお互いが成長し合うことで無事志望大学に合格できました。理学部地球科学系に所属。
2019年春、一人暮らしを始め実家の猫が恋しくなり入学してすぐに東北大学生の猫サークル「とんねこ」に入部。他大学との勉強会を通して「地域猫活動」の重要性を学びました。
2020年冬、様々な分野の人と関わりたい気持ちからPompadourに所属。代表2人の「スペシャリストでなくジェネラリストに」という考えに共感しました。所属後は団体のロゴデザインやフライヤーを作成していくうちにデザインに関心を持ち始めました。
2021年秋、高レベル放射性廃棄物の地層処分について考え広める全国規模の団体、ミライブに所属。まだまだ始まったばかりなので、これからに是非ご期待ください。