原田 弥侑
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ヒストリー

出身地

熊本県

幼少期の暮らし、体験

 「小さい頃から出掛ける度、必ず紙とペンを持ち歩く子供だった。」
 今でもよく両親に言われる言葉です。幼稚園の頃から、よく道中の車内で、ずっと絵を描いていたのを覚えています。当時は今よりも車酔いしにくかったり、揺れで線がブレることを気にしていなかった分、むしろ今より長い時間絵を描き続けていたかも知れません。それだけ続けていても全く飽きることはなく、当時からそれだけ絵を描くことが大好きでした。
 小学生の頃も、毎日休み時間になる度に引き出しから自由帳を引っ張り出しては、絵を描いていました。自由帳を広げる度に友人達が机を囲んで絵を見てくれるのが嬉しく、この頃から人に絵を見てもらう事が好きでした。物心ついた頃から、主に母の影響でディズニー作品とジブリ作品には触れ続けていましたが、小学校高学年になるとONE PIECEが大好きになり、そこから私の漫画好き人生は始まりました。その頃には、私の自由帳はONE PIECEのキャラクターたちで埋め尽くされるようになっていました。
 


中学・高校時代

熊本県立第一高等学校 2019年卒業
 中学生になり、私や周囲の友人達の間で、本格的に漫画やライトノベルなどが流行るようになりました。その頃の私はそれらの気に入ったコマや挿絵などを、どれだけ忠実に模写できるかという挑戦を日々続けていました。次第に自分のオリジナルの絵も描くようになり、どんどん描けるようになっていく感覚が楽しくて仕方ありませんでした。
 高校では、入学して一週間後に熊本地震に見舞われ、以降一ヶ月間休校になってしまったりと思うようなスタートを切れませんでした。しかし幸運にも友人には恵まれて日々楽しく過ごしました。
 二年生の時に文化祭(9月開催)のポスターを、三年生の時に体育祭(5月開催)のポスターをそれぞれ描き、特に体育祭の方は当時の校長先生に気に入っていただき、体育祭当日に全校生徒の前で名前を出してお褒めいただきました。
 またその後、高校の学校見学会の際に中学生に配るためのクリアファイルのデザインも採用していただき、実際に製品化されました。そのクリアファイルは今でも販売されているようで、見かけると正直むず痒い気分になってしまいます。
 以上のように、高校時代に「自分の絵が何かに採用され、公的に使用される」という経験を豊富に積むことができました。これが、現在の「自分の絵・作品を何かに使用されたい」という願いに直結しているのだと思います。

大学・専門学校時代

専門学校東京デザイナー学院
 一方で、「イラストレーターとして食べていく」ということに上手く将来性が見出せず、一旦は絵と全く関係のない大学の学部へ進学しました。しかし二年生の後半辺りからコロナ禍に見舞われ、授業もほとんどがリモートとなり、自分の時間が増えたことで今一度、自分の人生、そして将来を見つめ直すきっかけになりました。
 考えた結果、好きな事であること、そして手に職をつけられるかも知れないということから、今の進路へと舵を切ることにしました。
 大学を中退してから一年間、進学資金を貯めるためにアルバイトを掛け持ちしていました。書店員としては、接客能力が身についた他、当時大ブームだった鬼滅の刃やベストセラー本など、時代の流行を「出版業界」を通して肌で感じることができていたのが楽しかったです。また、もう一軒はレストラン「薔薇亭」で、厨房・ホールスタッフとして働かせていただきました。ONE PIECEに登場するレストラン「バラティエ」のモデルになったとされており、小学生の頃からファンである私にとって一生物の自慢となりました。
 そういった経験を積みつつ、進学先を九州圏から東京へ変更し、今に至ります。理由は、目指す業界との距離をできるだけ、手始めに物理的に縮めるためです。協力を惜しまず助けてくれる両親に誇れるような仕事ができるよう、日々励んでいます。