平川 俊介
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ヒストリー

出身地

熊本県

幼少期の暮らし、体験

モノづくりが好きな祖父。そして、大手建材メーカーに勤める父の下で育つ。将来の夢は大工目指し怪我をしながらも工作に熱中。ここがワタシのモノ作りのはじまり。

小学生になると実家の建築図を基に見様見真似で平面図を描くようになり、大工から設計士を志す。

中学・高校時代

デザイナーを目指す友人の影響を強く受ける。そこでデザイナーという職種を知った。中高の授業時間にとにかくパースを書いた。将来こんな部屋に住みたいと。

桂正和の作品電影少女に背景作画に衝撃を受ける。更にパースを描きまくる。

建築家の息子であったクラスメイトに才能あるのでは?と言う言葉に何を勘違いしたのか、本気にインテリアデザイナーを目指すようになったのが高校1年だった。

大学・専門学校時代

 専門学校九州デザイナー学院の建築科の体験入学に何度も参加し願書はインテリアデザイン学科で提出。パンフレットの吉永先生を見てこんな先生に習いたいと。実は数字が嫌いだっただけ。それだけで、インテリア選んだことは今でも恥かしい記憶の一つである。また、従兄弟同士でインテリアデザイン学科の学生だったことは懐かしい思い出。

はるばる2年間の熊本から2時間かけ、博多まで通う学生生活の始まり。

 インテリアデザイン学科の150人の学生はいた。だが友人と呼べる人は、殆どいなかった位目立たない存在だった。しかし、誰よりも優れた作品創りにこだわり、ライバルとの差別化を図る知恵と工夫が、ここで沢山生まれた。“他とは違う”との考えで、作品も電飾を使ったり企画書も仕上げには圧倒的差をつけた記憶が鮮明だ。アナログの時代によく頑張った方だと考える。

 福岡のディスプレイデザインの第一人者である、廣光先生の影響を強く受けた。衝撃的だった。この頃から商業空間デザイナーを目指すようになった。パースの授業時間に内田先生に懇願。出席にしといてと言い残し、廣光先生と一緒にディスプレイの設営に同行した。ここで初めて人に見てもらう感動を少しづつだが理解した。

 2年の就職活動。何を勘違いしていたのか、偉そうだった自分。バブルが弾けて就職氷河期と言われていた時代。“おれはコレがやりたいんだ”と言う意気込みで就職活動に臨んだ。面接ではワタシが演りたいこと前面に押し否定されるとお断り。なんと生意気だったのだろう。吉永先生に毎回苦笑いをされ、お前が演りたいことは難しいぞと言われ我に気づく。最後に受けた会社。作品を持ち込み君面白いねと言われ採用。
憧れのデザイナー人生の始まりだ。また父親が踊るように喜んでいる姿を見て家族に愛されていることを知った。