本多 勇揮
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ヒストリー

出身地

福岡県糸島市

幼少期の暮らし、体験

1999827 11:00

福岡県前原市(:糸島市)のとある病院で産声を上げる


〇加布里保育園 入園

当時から周りよりも背は高く頭一つ抜けていた

年中時にはマーチングの指揮者を担当し、当時の身長半分くらいの棒をクルクル回したり上に投げたりしていた

また、年中時、卒園式の時に西方沖地震が発生

周りの子は椅子の下に隠れたり慌てたりしていた中、自分だけ椅子の上に座ったままだったようで、肝が据わっていた


2006 4 前原市立前原小学校 入学

1年生になると同時にニンテンドーDSを買い与えてもらい、ゲームに熱中することとなる。ポケモンのダイヤモンドを主にプレイし、友達と切磋琢磨しあった。しかし、その弊害として、目が悪くなることはその当時思いもしなかっただろう。

4年生になると、友達の勧めで野球を始め、その楽しさに気づく。

そのまま、地元の少年野球チーム:前原野球スポーツ少年団(前クラ)の一員となり、その後9年間の野球人生の原点となる。

しかし、思うようにプレーすることは中々出来なかった。

4~5にかけて急激に身長が伸びたのだが、その影響で膝の成長痛を発症。さらに、5年生の時に野球肘も患い、IL(故障者リスト)に入ることが多かった。

野球の傍ら、学校生活では、6年生の時に、運動会の応援団長を務め、ブロック長とともにみんなをまとめ上げた。

様々なことを経験した6年間も、あっという間に過ぎ、無事に前原小学校を卒業した🌸

中学・高校時代

2013 4 糸島市立前原西中学校 入学

茶色の制服という特徴的な制服を袖を通し新たに始まった新たな生活。

小学校からの野球を続けると決意し、硬式野球チーム:二丈ファルコンズに入団。火木土日の練習で、自転車で30~40分かけて球場に向かったり、夜遅くまで練習があったりと大変であったが、充実したものであった。

しかし、ここで転機が訪れる。親の仕事の都合で母方の実家である太宰府市に引っ越すことになったのだ。結局、前原西中学校での生活は3ヶ月で幕を閉じた。


2013 9 太宰府市立太宰府東中学校 転入学

2の中学校人生がスタート。

中学校の野球部に所属することとなった。

学年のみんなも、転入生である自分を暖かく迎え入れてくれ、すぐに馴染むことができた。

野球では、この時から新たに投手を始める。一年次は一塁手と投手を兼任し出場し、1年生大会では3位になる。

2年次には、前年まで福岡講倫館高校で指導してきた山本秀明先生が赴任。ここから大きく野球部は生まれ変わる。部員は20人足らずと恵まれていたわけではないものの、効率的な練習や意識改革でチームはみるみる成長。2年次の中体連では惜しくも予選敗退となるも、自分たちの代になると、新チーム始動から20連勝など勝ちまくる。さらに10月の大会(万葉カップ)で準優勝した。個人的にも主戦で投げることが多く、非常に成長できた。チームも練習試合などで勝ち続け、対外試合の勝率は8割を超えていた。そしてむかえた最後の中体連。筑紫地区大会を敗者復活から勝ち上がり5位で予選突破すると、次の筑前地区大会で3位に滑り込み県大会へ駒を進める(3位決定戦で完封勝利を挙げたのだが、その後に号泣したことは内緒である)。迎えた県大会でも勢いは衰えることなく準決勝まで勝ち進む。勝てば九州大会出場が決まる一戦で先発を任せられたが、我ながら見事な投球で41失点で切り抜ける。その後、6回に1点、7回に1点を取って逆転。後を継いだKSくんが無失点で切り、決勝進出、と同時に同校初の九州大会出場を決めた。

九州大会では初戦敗退となったが、とてもとても貴重な経験をでき、歴史に名を刻めたことがなにより嬉しかった。

また、3年次は野球部顧問の山本先生が担任になった。部活の時とは全く違う一面をみれてとても面白かった(語彙力)

内容の濃い中学校生活もまたまたあっという間に過ぎ、無事に卒業することができた🌸


2015 4 福岡県立武蔵台高校 入学

推薦入学で武蔵台高校に入学。

高校まで野球を続けると決意したので、野球部に入部。こちらも桁違いだった。一学年40人を超え、部員は140人近く在籍していた。しかし、公立高校では珍しい専用球場がある。これは武蔵台高校に行くと決めたひとつの要因でもあった。しかし、それでも100人近い選手がグランドでプレー。まさしくひしめき合っており、衝撃を受けた。

そんな中始まった高校野球。いきなり試練が待っていた。1年生はグランドには入らずにトレーニングや走り込みをするのだが、そのトレーニング中に椎間板ヘルニアを発症してしまい1週間の入院を余儀なくされてしまったのだ。GW直前の出来事だった。

復帰後は、必死に練習を頑張った。長い長い夏休みの練習、きついきつい冬練。特に冬場に行う投手陣のインターバル走は本当に死ぬかと思った()

しかし、投手陣は面白いメニューがあった。

出身中学へみんなで走って挨拶に行く、秋の大会で負けた高校のグランドまでみんなで走っていく、さらには大学(西南・福大)のグランドまでみんなで走っていくというものだ。

中学に関してはせいぜい10キロ程度だが、秋の大会で負けた高校のグランドに関しては、総走行距離60キロにまでのぼった(一年次:西短(八女市)、二年次:久留米商業(久留米市))。大学のグランドに関しては、フルで走りきり、まさかの80キロ。帰る頃には日が沈み本当に帰り着くかが不安になった。

しかし、プレー面ではなかなか思うような結果が残せなかった。結局、最後の夏の大会ではベンチ入りを果たせずスタンドで応援することになった。

しかし、2年半十分にやり切った。後悔はなかった。

チームは初戦で西日本短期大学附属高校に1-7で敗れたが、グランドで戦うみんなの姿を見て頼もしく思い、このチームで良かったと思えた。

引退後は、大学入学に向けて動きだした。

その前に体育祭があったが、自分は「安全長」というリーダーに就いた。仕事内容はと言えば、、、練習前に大きなバケツに水を汲む。以上()

とりあえず人生最後の体育祭も存分に楽しめた。

そして、1年次からコツコツ定期試験を頑張ってきたおかげもあり、西南学院大学の指定校推薦を頂くことができた。無事に合格し、西南学院大学に進学が決まった。

そんなこんなで、高校3年間もまたまたあっという間に過ぎ、無事に卒業した🌸