ここでは、自分の経験を元に、自分が成し遂げたいことを2点お話します。
僕は現在京都大学工学部物理工学科に通っています。世間的に所謂高学歴です。自覚してます。
しかし、ここまで僕が来れたのは勿論、僕自身が血反吐を吐きながら勉強したというのもありますが、それ以上に環境がよかったと感じています。
両親が教育熱心で、小学校から塾に通い(ある意味通わされ)、なんとか西大和学園に入学し、中学時代はただただ怠惰に過ごしながらも、高校で人生の恩師となる担任に出会い、勉強に心血を注ぎました。
もし両親が教育熱心でなかったら西大和学園には入学していないし、西大和学園に入学していなければ、高校時代を勉強に捧げるということもなかったでしょう。
そして、大学に入った今、下世話な話ですが
どれほど自分がお金を使ってここまできたのか
ということをヒシヒシと感じました。
勿論、京大には進学校出身者は多いですが、中には「塾は全て授業料免除でなんとかここまでこれた、そうじゃなかったら授業を受けれなかった」という人もいます。
さらに、時々テレビなどでも取り上げられることですが、貧困のために高校にすら通えないという子たちも実際にいます。
いくら生まれた時から才能があったとしても、高校にすら通えなければ、その才能を発揮する機会は中々見つかるものではないでしょう。
高校にさえ通えれば、大学に行くための知識は一通り学ぶことができます。高校の中で「もっと勉強がしたい!」と思うなら大学に行くという選択もできますし、興味のあることが見つかってその分野で就職するにしても、中卒よりは確実に就職しやすいです。
世界が資本主義である以上、貧困の存在は仕方ないのかもしれません。しかし、貧困によって努力する機会すら与えられないことは理不尽以外の何物でもないと思うのです。
努力する機会、すなわち、教育であると僕は考えます。
貧困であってもちゃんと教育が受けられるような仕組み作りに貢献したいと考えています。
先述したとおり、僕は高校時代を勉強に捧げました。
その結果として1年の浪人を経験したものの、京都大学に入学できました。
高校時代・浪人時代ともに、僕にとってかけがえのない思い出ですし、その中で苦しい思いをしながらも成長してきたと胸を張って言えます。
しかし、勉強に捧げてきたということは、それ以外の「何か」を捨ててきたということです。
タイムマシンで高校時代に戻ってやり直す、なんてことはできませんし、タイムマシンがあってもまた勉強に心血を注ぐだろうと思います。
しかし、それは勉強以外の物事を軽視したいというわけでは全くありません。
勉強以上に大切なことや面白いこと、興味深いこと、笑顔になれること…は世の中に沢山あると思います。
高校時代にそういうことを経験した!という人も多いでしょう。僕にとって数少ないそういうものの一つが「音楽」です。
ですから、僕は今更ながら勉強以外の「何か」を知り、触れ、人間的広がりを持ちたいと思っています。
このマインドを持ち続けることが、世界に目を向け、世界を知り、人生を豊かにすると考えています。
僕にとって、1つ目のマインドは世の中の理不尽や無理だという意識を乗り越えることであり、
2つ目のマインドは自分の能力的限界・知見的限界などを乗り越えることであります。
僕は現在しがない大学生であり、社会のこともまだまだ知らない今、何を言っても「そんなことは無理だ」 「綺麗事でしかない」 と言われてしまうことも多々あると思います。
しかし、僕は最後に一つ言いたい。
柿本 遼さんのマインドに共感