横浜や川崎などを転々としていた。(4歳まで)この時期はまだ幼かったため、ただ無邪気に日々を過ごしていた。あまりこの頃の記憶はない。未満児として保育園に入園した。仲の良かった友人が一人いたらしいが、記憶にない。
4歳頃に両親の離婚に伴い長野県に帰ってくる(母の実家)。引っ越し前の記憶は殆どないが、両親が喧嘩をしている間は兄と身を寄せ合っていた覚えがある。ただただ悲しかった。自分の無力さに打ちひしがれた。
長野県の保育園に入園した。仲の良い友人が二人できた。子どもながらに友人がいることの幸せを感じていた。保育園のご飯の時間、私はいつも最後まで残って食べていた。食べるのが遅かったからだ。残すことは許されなかった。当時は保育士の方に対して、それこそ恨みに近い感情を抱いていたが、残さず食べることの大切さを教えてくれていたのだと、今は感謝をしている。卒園の時、友人が泣いて別れたくないと言ってくれた。とても泣くので、少し困ってしまったがそんなに想ってくれる人がいる事が嬉しかった。その子とは卒園してから一度も会っていない。
小学校に入学した。入学して早々友人が1人できた。近所に住む泣き虫の女の子だった。好奇心旺盛な子でもあり、私はいつも新しい経験をさせて貰っていた。その子が男子に揶揄われていたときに、「私は頭が小さいから脳も小さいんだ」と言って泣いていた。私はこの言葉に衝撃を受けた。そんな事考えたこともなかったからだろうか。その時も私はその子を抱きしめるくらいの事しかしてあげられなかった。私はまた、自分の無力さを痛感した。
三年生になるとクラス替えがある。泣き虫の女の子とはクラスが離れてしまった。クラスが離れてからは殆ど話すことが無かった。そんなものだとも分かっていたが、少し寂しかった。そんな時に新たな友人ができた。しっかり者の女の子だった。私達はいつも一緒にいた。クラスで流行っていた女の子らしい遊びには興味が無かったから、二人でいつも遊んでいた。それが楽しかった。
四年生になるとクラブに入れるようになる。私はしっかり者の女の子と一緒に図画工作クラブに入った。この頃から物を作ることの楽しさを感じ始めた。とび出す手紙を作ったりした。
五年生になるとしっかり者の女の子が友人を紹介してくれた。人見知りの子だった。その子とは時間をかけて仲良くなった。三人で一緒にいるようになった。趣味があっていたから、一緒にいて楽しかった。私は人見知りの女の子に卓球クラブに誘われていた。図画工作クラブを辞めてクラブに入った。そこで運動は向いていないと悟った。
中学生になった。しっかり者の子と一緒に美術部に入った。一年の頃は部活内でもその子と話してばかりいた。それでも部活は楽しかった。いつも2人で笑いながら絵を描いていた。勉強の方は、物覚えが良い方だったので、成績は良かった。心配事が無かった。人見知りの子は違う部活に入っていた。
一年生の後半、人見知りの子が学校を休みがちになった。その子の家に連絡物を届けるのはいつも私としっかり者の子の仕事だった。その子の玄関先で三人で屯って遅くなるまで話し込んでいた。それがまた楽しかった。
二年生になった。クラスには何故か美術部が多かった。あまり話した事もなかったので最初はよそよそしかったのだが、段々と仲良くなることが出来た。友人が三人も増えた。私はその三人と一緒にいることが多くなった。度々、しっかり者の子を置いていくことがあった。今思っても最低な行為だと思う。その子は一人で読書をしている事が多くなった。元々読書をする子では無かったのに、読書好きの私が勧めに勧めたせいで読んでくれるようになったのだ。そんな経緯があったため、その子が読書をしている姿をみるのが少し辛かった。かと言って、何かするわけでも無かった。人見知りの子の家にだけは変わらず二人で行っていた。
三年生になった。勉強面での不安は特に無かった。生徒会に入って図書副委員長に任命して頂いた。とてもやりがいのある仕事だった。積極的に活動をした。自分の好きな仕事をする事の楽しさを知ったのはこの時だったかもしれない。美術部の子達とももっと仲良くなった。
美術部の大きな活動としては、行灯製作、階段アート製作、文化祭展示くらいだった。行灯製作に関しては、この年のみ一人何案出しても可という形式にしたため、私の出した案が両方選ばれ、2枚描くことになった。大変だった。襖くらいの大きさの和紙に2枚もイラストを描いたのだ。家に持ち帰って深夜までやっていた。ただ、それで勉強を疎かにするということはなかった。階段アートは文化祭に飾る物なのだが、同時進行で私は図書委員の仕事のステージバックも作成していた。休日返上だった。今思ってもよく倒れなかったものだと感心する。とにかく、与えられた仕事はやり切ったし、いつも期待以上のものを作ろうと必死だった。
その頃には人見知りの子は殆ど学校に来なくなっていた。私はまた新しい子と友達になった。明るく女の子らしい子だった。人見知りの子の家にはいつしか明るい子としっかり者の子と私の三人で行くようになっていた。私としっかり者の子が二人で過ごす時間は殆ど無くなっていた。人見知りの子は時々ひどく憔悴した様子だった。深くは踏み込んでいない。しかし私はそこでも、自分の無力さを痛感した。
中学を卒業した。私は第一志望の高校に希望通りに進学した。友人達も別々の高校に進学した。卒業式には皆スマホを持ってきていた。ラインを交換する為だ。例に漏れず私も友人達とラインを交換した。しっかり者の子にラインを聞いた時の私はどこかぎこちなかっただろうと思う。
高校に入学した。中学までとは違い勉強面では心配しかない。部活は漫研と演劇部に入った。美術部には入らなかった。私はイラストしか描けないからだ。
一年生の時は文化祭がなくなってしまった為漫研の活動は殆ど無かった。演劇部は精力的に活動していた。私は演劇部でもイラストの技術を活かすことが出来た。
二年生になった。紆余曲折あった人生だが、やっとここまで生きてきた。今年は文化祭が出来たため、漫研の活動も増えた。それとは別に漫画甲子園という大会にも参加した。結果は予選敗退だったが、誰かと一緒にイラストを作り上げる事や漫画を本格的に描くことは初めてだったので、新しい発見がありとてもやりがいがあった。そして、文化祭のパンフレットのイラストに何と私の絵を選んで頂いたのだ。イラストに関しては否定されてばかりだったため、初めて自分のイラストが認められたように思えて泣きそうなくらい嬉しかった。
これが私の「ヒストリー」です。これを通して私が何を伝えたかったのかというと、人はみなどうにもならない感情を抱えて生きているということです。無力さに押し潰されそうになるときもあります。でもその度に立ち上がる事もできます。長く努力を続けていれば実る想いもあります。私はイラストを通してそれを人々に伝えたいのです。自分は無力だからと諦めるのでは無く、いま自分の持てる力で何が出来るかを考えることが大切なのだと私は私の経験から学んだのです。
そしてもう一つ、友人は大切にしないと絶対に後悔します。友人を大切にするなんて当たり前だと思うかもしれません。でも私はそれが出来ませんでした。この文章は私の贖罪でもあります。後悔してからでは遅いのです。誰に届くかも分かりませんが私はこのことを伝えたいのです。
読んで頂き有難う御座いました。