山本 将太郎
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ヒストリー

出身地

山口県

幼少期の暮らし、体験

 私は、5歳くらいまで喘息に苦しみ、外でなかなか遊ぶことができない子どもでした。そこで、父と祖父から教わったのが将棋でした。喘息の私でも将棋に取り組むことができ、のめり込みました。

 喘息が落ち着いた小学生の頃からは、その反動のせいか、ひたすら外で遊びました。友達とドッジボールしたり、家族と毎週公園に行って野球をしたり、喘息で何度か死にかけた幼少期を思うと夢のようでした。

 小学5年の頃に転機が訪れます。大好きだった将棋に関する本で読書感想文をかくと、なんと毎日新聞社賞をいただけることになり、東京での表彰式に招待されました。その受賞がきっかけとなり、日中韓子ども童話交流事業に県代表として選ばれ参加させていただくことになりました。

中学・高校時代

 私は、将棋のプロ棋士を目指していたため、高校受験がない中高一貫校に進学しました。そして、夢に向かって猪突猛進しました。中学2年の頃からは、将棋のプロ棋士の養成機関である奨励会に入り、月2回、山口から大阪に通う日々を過ごしました。勝負の世界は想像以上に厳しく、勝ったもののみが評価される環境でした。

 高校1年の時、再び転機が訪れます。高校に進学し、もう一度将来について考えることにした時です。このまま、将棋のプロ棋士に向けて突き進むか、大学受験を目指すかといった時、厳しい勝負の世界で身をこれ以上削ることはできないと感じ、奨励会を退会するという決断をしました。これは、将棋のプロ棋士への道を諦めることを意味します。悔しくて涙が止まらない日々もあり挫折を感じましたが、将棋をコミュニケーションツールと考えることができるようになり、一気に肩の荷が下りた感じがしました。

大学・専門学校時代

 大学では立命館大学に入学し、将棋で全国トップクラスで有名な将棋研究会に所属しました。再び、将棋と向き合える、そんな環境でした。これまでとは異なり、伸び伸びとみんなで楽しく取り組むことができました。

 大学では、持ち前のアクティブさを生かして、留学に行ったり、ボランティアをしたり、日本に留まらず、海外にも足を運びました。将棋の面においても、切磋琢磨を続け、団体日本一を獲得しました。そして団体日本一を3連覇することもできました。これをきっかけに、住んでいる町で子ども将棋教室を設立し運営したり、立命館大学杯子ども将棋大会を開催したり地域貢献活動にも積極的に取り組みました。

 また日中韓子ども童話交流事業にも縁があって、その仲間たちとの交流もできる日々が続きました。これは私にとっての大きな繋がりでした。