大阪の北海道といわれる豊能町の農家の長男として生まれ、大自然の中で育つ。
田んぼで遊んだり、山で虫を捕まえたり、川で魚釣りをしたりと、
今思えば、本当に昭和の子供の暮らしをしていました。
体を動かすことが好きで、町のマラソン大会に毎年出場。
足の速さと持久力には自信がありました。
Jリーグ発足の空前のサッカーブームの中、中学校からサッカーを始める。
高校もサッカー部に所属、2年時にはレギュラーに。
2年生から特進クラスに入り、毎朝のテスト、7時間目までの授業、そして部活と
高校での充実した生活を過ごしました。
決して強い部ではなかったが、3年時の冬の選手権予選まで全力で取り組み、
引退の際には涙が止まりませんでした。
高校までバスと電車で片道1時間半の道のり、朝練がある日は5時起き、
練習が終わって家に着くのが22時という生活で、今思うと大変な環境でしたが
楽しく過ごせたのは、家族の協力と支え合えた仲間のおかげだと感じています。
大学へも車、電車、バスで片道2時間半の通学で、
(今は一人暮らししておけば良かったと後悔しています笑)
学校近くに住んでいる友達の家にしょっちゅう泊まっていました。
学業は単位を落とさないように頑張りながら、バイトに精を出していました。
大学時代にも、高校のOBでの草サッカーチームに入ったり、
地元の少年団のコーチをしたりとサッカーは続けていましたが、
一番はまったのはスノーボードで、ゼミの同級生に実家が兵庫県の神鍋高原の
スキー場で民宿を営んでいる友達がいて、毎年冬場はそこに泊まらせてもらいながらスノーボードを楽しみました。
今でもスノーボードに関しては自信があります。
バブル後の就職超氷河期と言われた時期に就活を行い、大学の先輩たちが多く勤めていた、京都市内の呉服卸をメインとしたアパレル商社に就職、1年目から宝飾事業部の営業に配属。
宝石という全く知識のない(誰でもそうだと思いますが笑)職に就き、初めの1年は悪戦苦闘。売上にシビアな会社だったので毎月の会議は非常に厳しいものでした、また出張も多く最初のエリア担当が北海道だったため、月の3週は出張にでている状況で生活も大変でした。その頃だったので接待も多く、慣れていない場での振舞い方がわからず、他社の方にその場でコテンパに怒られたこともありました。
そんなこんながありながらも必死に食らいついていき、学生気分が抜けたころから徐々に周りの方々に認めてもらえるようになり、3年目くらいには出張が楽しくなり、そうなると得意先からも可愛がられ、数字もできていくようになりました。
予算ができてくると、落としたくなくなり必死で数字を作るようになりました。既存先、新規先へと積極的な営業で売上を構築、目標達成のためへの手段や執念をここで身に着けたと思っています。
それだけ数字にこだわるようになった私ですが、ある時の会食で得意先の社長に
「仕事で大事にしているものは何か?」と問われ、「会社としての売上と利益の構築」と答えた際に、それではこの先しんどくなると言われ、納得できなかった私はそれでは社長には何が大事か尋ねたところ、社会奉仕だと言われびっくりしました、その社長も社員には非常に厳しい方で数字にシビアではあるが、どれだけ売上を作ってもそれが社会奉仕に繋がっていないと虚しくなってくるとおっしゃっていました。
それからは自分も少しでも社会奉仕に携われように、少なくとも関わる人たちが笑顔になれるような仕事を心掛けています。
今、勤めている、一般社団法人ダンス教育振興連盟JDACで関わる人たちを幸せにできるように取り組んでいきたと思います。