Keito
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ヒストリー

出身地

京都府八幡市

幼少期の暮らし、体験

幼稚園

私立の幼稚園に通わせてもらう。めちゃくちゃ仲のいい友達が1人できる。休み時間はほとんど1人かその友達と過ごしていた。

知能の全盛期。絵を描く時間で、朝見た天気予報の関西地方の地図や週間予報の表を作っていた。幼いころから「舞鶴」を書けるようになる。その友達も頭がよかった。彼は京都大学に現役合格した。

4歳ごろからピアノを始める。絶対音感が身につく。ピアノは3人くらいのクラスだった。ピアノの音当てクイズで無双していた。「次はけいと君以外が答えようか」と先生から止められる。わかっていても、でしゃばりすぎるのはやめようと思い始める。ピアノでは、才能がある子が集まる小学生のコースに推薦してもらう。

同志社小学校を受験。なにがなにやらわからなかったが、なぜか合格する。正直自分で勝ち取った合格ではないと思っている。すべて親のおかげ。今まで「かしこいね」「かしこい学校に通っているね」と言われるたびに複雑な気持ちになる。

4歳ごろから9歳ごろまで水泳も一応やっていたが、芽が出ず。平泳ぎやバタフライはできずに辞めてしまった。このころはあまり要領がよくなかった。才能でどうにかするスタイルでは勝ちきれないと学んで、クレバーに勝とうと心掛ける。


小学校

同志社小学校1期生として入学。小学校は、才能の塊みたいな人がごろごろいた。以前は天才扱いされていた自分が、大したことではない人だと知る。4年生ごろまで成績は中の上。

4年生まではよく外で遊んでいた。運動神経も普通ぐらい。特に何かが絶望的にできない、とかではないけれどもクラスの主役になるほどの才能もなかった。

ピアノもハイレベルなコースに入った。自分より才能も努力量も上な2人とチームを組む。ユニットを組めば必ずと言っていいほど賞をもらっていたけど、自分で手に入れた感覚がなく心からの満足はしなかった。

5、6年生でめちゃくちゃいい成績をとろうと思い始める。図工の掃除は最後までやり、持久走は全員応援、授業は首がもげるくらい先生の話を聞いていた。その結果本当にオール3をとってしまう。うれしかったし学校生活が楽になったけど、飾った自分を評価されている気がして複雑な気持ちになる。大人から評価される方法を知ってしまう。

はたから見れば充実しているとは思うし楽しく生きていたけれども、どこか虚空というか、自分自身で成し遂げたり自分そのものをに止められる経験はなく悶々としていた。

両親も仲が悪かったし、あまり親としゃべらないようにしようといていた。才能さえ見せれば居場所が見つかる、だけど何もしていない自分を認めるのが怖かった。

中学・高校時代

同志社高等学校 2018年卒業

中学校

同志社中学校で主にしたことは生徒会。中1中2でHR委員長、中3で執行委員・書記長を経験した。運動も嫌いじゃないけど、あまり向いていないと思っていたので入らず。

生徒会書記長ではひたすらに生徒会広報誌を書きまくる生活。結果的には生徒先生合計約1000人に、年約50号発行。広報誌は裏表とあったので、1年で10万回印刷していたことになる。

朝8時前に学校に来て、印刷、授業、印刷、授業、印刷…18時に学校を出る。このような生活も経験。正直それに慣れてまったく大変という感覚もなかった。

広報誌の内容に触れてくれる人もいたり、執行委員8人で青森の姉妹校まで研修旅行に行ったのもいい思い出。自分はイケている部類ではなく仕事ばかりしていた。ほかのメンバーは仕事も遊びも楽しんでいて本当にすごいと思っていた。この人たちに追いつくには、並々ならぬ努力をしないとな…とも思う。

高校

中学時代とはうって変わって運動部に。クロスカントリースキーでIH出場や府大会優勝など思いもよらぬ経験をする。
部門のリーダーを任せてもらった2年1月。当時弱小チームだったが、力のある後輩が入ってきたこのチームを絶対変えようとする。