森田 渉吾
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ヒストリー

出身地

埼玉県

幼少期の暮らし、体験

生まれてすぐに父の仕事の関係で1年間アメリカへ。なお当然だがまったくそのときのことは今は覚えておらず、、、

日本に帰国し英会話教室へ通いだす。最終的には高校2年まで通い続けることになる。外国人の先生と毎週50分程度、お遊び感覚で簡単な英語でお話。今思えばこれが海外に興味をもち始めるきっかけだったかもしれない。

幼稚園はよく覚えておりませんので割愛。笑

小学校に入ると休み時間や放課後には決まってサッカー。小学4年生で近所のサッカーチームに念願叶って入団。サッカーサッカーサッカー。サッカー中心の生活が始まった。3年生のとき学級委員になったことをきっかけに、なんとなく人の上に立つ役職等につくようになっていった。しかしそういった役職は経験が多い方であるのに、自分が向いているとかサマになってきたと思ったことはほとんどない。


中学・高校時代

埼玉県立熊谷高等学校 2017年卒業

楽しそうだという理由で公立の男子高校を条件にしたうえで、高校ではよりサッカーに打ち込みたいと思い、自分が試合に出られるチャンスがありそうな中で最も強豪に見えた熊谷高校に進学。

サッカーに打ち込む一方で、「自由と自治」という校訓のもと強い個性をもち刺激を放ち続ける仲間と3年間を過ごした。世間一般では「変わっている」と思われることも、この高校では普通だった。楽しい、かけがえのない充実した3年間だったと胸を張って言える。

高校1年でボストンへ研修へ行き、現地で感じた自分の思ったことをはっきり伝える文化に強烈な衝撃を受けた。素晴らしいものを素晴らしいと周りの目など気にせず称賛し、日本とは異なり自ら積極的に発言する生徒の様子をみて高揚感がおさまらなかった。

海外に強い関心を持ち始めて迎えた2年生、校外学習でJICA筑波を訪れた。そこで国際協力を仕事とする選択肢を初めて意識した。世界を見渡せば自分のように幸せに暮らせる人々ばかりではないはずで、その問題に自分も仕事して携われるかもしれない。そう思ったことがきっかけだっただろうか。

またしばらくサッカーに明け暮れた日々を過ごし、段々と熱も冷めていった。しかし志望校を本格的に考え始めたとき、自分のやりたいことは何を考えても金銭的な面など様々な面で不安は拭えなかったが、結局は国際協力なのであった。

大学・専門学校時代

中央大学

1年間の浪人の末、中央大学に進学。期待をもって大学に入ったが、国際教養学部のような国際系の学部を第一志望にしていたからか、あまりイメージしていたような勉強が出来ず途方に暮れる。とりあえずサークルに入ってはみたけれどどこかしっくりこない。大学に通っている意味はあるのだろうか、そんなことを考えたこともあった。

しかしそんな日々も、夏休みのセブ島への短期留学で劇的に変化した。土日には現地NPOのボランティア活動に参加し、学校では様々な考えや文化をもった外国籍の仲間とふれあった。所得水準が低いはずの現地の住民は、日本人よりもたくさん笑い自分たちで人生を楽しくできる人々だった。物から幸せを得ようとするのではなく、自分たちで生み出そうとする彼らの姿勢は、自分から様々なことに挑戦しようという私の思いを駆り立てた。

帰国後、彼らは果たして不幸せなのか、現地にとって最良の支援とは何なのか、そんなことを考える機会が増えた。そんなとき見つけたのが、私が今所属しているFESTである。「世界から向こう見ずな支援をなくす」この理念と、メンバーの活動に対する熱いハートに胸を打たれたのである。こうして私は今、FEST TOKYOの代表を務めている。