マスヲ
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ヒストリー

出身地

東京〜相撲の街、両国〜

幼少期の暮らし、体験

女の子も相撲に出れるのであれば、
​近所の男の子を投げ飛ばす勢いのあるくらいわんぱくでおてんばな女の子だった。

幼少時代は
生まれた時から反抗期(お母さんの口癖です)
と言われるほど飽きることなく泣き喚き、親を困らせ、
最近やっと言葉が通じるようになったと言われる。

水泳をバスケと毎日習い事をこなし、友達と放課後に遊ぶ機会というものが少なかった。

学年が上になるにつれて、水泳とバスケと両立が難しくなり、バスケ一本に縛る。

​小学校5年生から身長が変わらず、当時は周りよりひとつ頭が抜きに出てた為、ゴール下でリバウンドをひたすら取っていた。スタメンや区選抜にも選ばれ、練習量がハードになるにつれてもう運動はしたくないと12歳ながら思い始める。

中学・高校時代

私の通った中学校は有名なバスケットボールの顧問の先生がいるため、バスケットボールの強い面々が揃う。

もうスポーツは嫌だった私は
何を血迷ったか、バスケのスキルも活かせそうで、バスケよりは体力を必要としないバレー部に入部した

これが大きな間違いだった。

水泳、バスケの経験通して手に入れた柔軟と粘り強い忍耐力と体力を活かし、初めのうちは基礎作りから雑用まで全力で励んだが、

​コート内で神経を最大限研ぎ澄まし、ボールの動きを予測して瞬発力で動くことが苦手と気づき始めてから放課後が億劫になりはじめる。

ある日、顧問の先生からスタメンに選ばれて満足し、学級委員会の集まり(中学校3年間学級委員やってました)を理由に休み始める。

一度"逃げ"を覚えた私はもうコートに戻ることが嫌になり、マネージャー業にシフトチェンジし、無事引退。

中2の夏、とあるシナリオライターさんとその方の描くアプリゲームに出会い、今に通づる趣味ができる。

中学生だとまだアルバイトが出来ないため、
毎日趣味に使える資金繰りをしていた。

今も同じ趣味を持ち、連絡を頻繁に取る仲の良い友達と中学時代の話になると、『黄色の小さい紙にずっとお金の計算していたよね』と言われるほどお金のやりくりに必死だった。

中学校の卒業式の翌日に初めて現地でのイベントを肌で感じ、
エンターテイメントの世界に足を踏み入れ、アーティストがファンへ、一夜で与える感動とエネルギーを目の当たりにし、心を奪われる。

高校にあがると同時にアルバイトで趣味に使うお金を稼ぎたかった私は、入学式のあと、すぐ面接に行く。
無事に採用され、今もそこの飲食店で働いている。

アルバイトを始めて趣味に使える資金に余裕ができた私はエンターテイメントの魅力にどっぷりハマり、
それをモチベーションに今も励んでいる。

中学生に上がる時とは違う、初めての環境と初めての友達にむず痒さを覚えつつも、
自己紹介でつまづく。

オタクは謙遜されがちだ。
「好きな男のライブに行くことが好きです」
「若い男が一生懸命歌って踊ってる姿が好きです」と素直に答えれば、大事故につながる。

かと言って、バスケとバレーから逃げた私が「バスケとバレーができます!」と言ってしまえば、スポーツマンみたいな第一印象になってしまうし、もうバスケとバレーは散々だ。

ありがちでかつ、間違ってもいない
「音楽が聴くこと」「映画を見ること」と答えれば、
内容を深掘りされる。
流行りの知識が当時なかった私は、答えと相手のリアクションによってはどっちが火傷するかわからない。

今の自分を作っているのは趣味しかないのに、
それを自信持って発信して返ってくる反応が怖くて、

『趣味は関節慣らしです。』で半年間通した。
あとはその時の思いつきで凌いだ記憶がある。

部活動は無所属だったが、男子バスケットボールのマネージャーに誘われ、友達も誘って入部。

男子バスケットボール部の仕事は基本甘く、洗濯とドリンク作りと出欠・部費管理である。3人のマネージャーで分担し、仕事を終えたらベンチで他愛もないおしゃべりする時間の方が多かった。

幸い、このマネージャー2人が共通する趣味で、それはそれは毎日話が弾んだ。

高2の夏、当時付き合っていた恋人への誕生日に奮発したくてアルバイトをもう一つ増やした。

ここで出会う先輩の
『接客はエンターテイメントだ』
『地方からの観光客が多いから、東京の看板を背負った気持ちでお客様を対応して』
と言われた時の衝撃は今も忘れない。

​その先輩の一言で接客業への熱量が一転し、
意識して仕事に励むうちにその努力が認められ、
最年少にして最古参という立場で、
たくさんの年上に囲まれ、
大人の社会に一足先に触れ、世界が少し広まった。

そして良い意味でも悪い意味でも、
その場その場で取り繕うことに慣れてしまう。

奮発した恋人への誕生日プレゼントも内容が原因で破局。
原因は相手の勘違いと解釈違いだが、
これが周りを巻き込むタイプの台風みたいな男で、
有る事無い事散々言われ、今まで自衛故に波風起こさず静かに高校生活を過ごしていたのに、急に名前も知らない相手から冷たい目を浴びたりした。

噂が独り歩きして、根拠のない酷いレッテルを貼られ、周りからの印象が最悪なことに、おちこみ、泣くこともあったが、ズボラなので、その誤解を解くのすら面倒臭くなった私は、もうこれからも大事にしたいと思う友達さえ事実を信じてくれればそれで良いやと、居心地の良い友達だけを選び付き合うようになり、「隠居の身とはこういうことか〜」と当時思ったりした。

事実を知った友達が周りに働きかけてくれたこともあり、誤解も解けていったが、
その一言二言で手のひらを返すように態度を変えてくる者を何人も見て、卒業と同時に縁を切った。

高校時代でのこの経験が、自分を臆病にし、慎重になったことへ、大きく影響していると思っている。

大学・専門学校時代

当時、アルバイト先で出会った仲の良いネパールの友達が、
その見た目からごく稀に酷い文句を言われたり、
とても仕事ができるのに、不毛な扱いを受けているのを見て、東京オリンピックも控えていたので、『日本語の教師になりたい』と思っていた時期もあるが、給料形態を調べて断念。


18半ばで夢はなんだ、やりたいことはなんだと言われてピンとくる学生なんて、本当にごく一部だけだと思いながら、面談のたびにやりたいことも言うことも違うので、
進路選択を通して担任と大揉めしたが、

高卒は嫌だ。
かと言って机に座って4年間勉強することも嫌だ。

じゃああなたには専門学校しかありません!!

とトントン拍子で話が進み、

自分の飲食店を持ちたいと捻り出した夢に基づいて
専門学校を探し、入学を決意した。

コロナが流行り、
高校を卒業した自覚も専門学校に入学した自覚もないままオンライン授業に励む。

高校の友達とは心機一転良い出会いがあると思ったが、同じクラスには気難しい若男しかおらず、未だに上辺のみの関係しか築けていない現在