むとしょー
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ヒストリー

出身地

福島県白河市

幼少期の暮らし、体験

福島県白河市に生まれる。5姉弟の末っ子だ。姉弟の中でおそらく1番の人見知り。同級生と母の年齢が大きく違うことがしばしばである。しかし、生後まもなくして引っ越してしまったため、白河での記憶はほとんどない。

山形県東根市に引っ越し。山形の幼稚園時代は、毎日朝は泣いていた思い出しか出てこない。正直、あまりいい思い出がなかった。

幼稚園の年長となる年に福島市に引っ越し。この頃にはなぜか朝は全く泣かなくなった。

そして、市内の小学校にそのまま進学。ただ、幼稚園からの友達がほぼおらず、最初の2年は心細いものだった。

その間に、ある大きなターニングポイントがある。

小2の年に、父が亡くなった。

あまりこのことは、多くの人には言っていないことだったが、事実であり、自分が変わった最初のきっかけであったから、公表することにする。

そして、翌年3月。

あの震災が、生活を変えた。

当時は自宅にいた。何日か前からおたふく風邪にかかっており、自宅で寝ていた。そこに、震災が襲った。激しい揺れに思わず飛び起き、茶の間のテーブルの下に潜った。揺れは長く続き、怯えていた。意識はしていなかったが、停電はしておらず、テレビをつけると、津波の映像が目の前で流れていた。幸い福島市は内陸部だったものの、海沿いは想像を絶することになっていた。何もすることが出来ず、ただテレビの前で呆然としていた。

しかし、福島にも、見えない被害が降り注ぐ。

原発事故による、放射性物質の流出だ。

その日から、外での活動が厳しく制限された。

無事に進級したものの、気づけば多くの同級生がいなくなっていた。今でも、その人たちとは関係が途絶えている。しかし自分たちの家族は、行くあてもなかったのかは知らないが、福島に残った。

逆に、転校してきた子も多かった。浜通りから避難してきたのだ。

小学3年の時は、辛かった。とにかく辛かった。外遊びがほとんどできず、体育の授業も室内、運動会でさえも、室内になった。翌年以降は除染が終わって外でできるようになったが、午前中に運動会が終わった。

そんな中で、母は、自分に多くの経験をさせてくれた。

夏休みにサマーキャンプのような催しに、3年以降は4年連続で参加した(抽選があったものもあったが、ほぼ当選した)。特に強く印象に残っていることは、富士登山である。

小学6年の夏。福島、宮城、静岡の小学生と1週間合宿をした。そのメイン行事がそれである。その日は天候に恵まれた。山の天候は変わりやすいのはご存知であろうが、見事に青空が広がっていた。自分たちは、最後まで諦めることはなかった。頂上まで行く。その気持ちだけだった。そして見事に、登頂を成功した。いちばん高いところまでは行けなかったが、初めての山登りで登頂した達成感は大きかった。

そんな、多くの色濃い経験を積み、小学校を卒業した。

中学・高校時代

福島県立福島東高等学校

中学校では、自分を変える出会いがあった。

1つが、「地方創生イノベーションスクールイノベ)」だ。イノベは多くのことを変えた。まず地域を知るところから始まり、あらゆる地域の中高生と出会い、観光プランを行い、初めての海外渡航である台湾に行って現地の中高生と交流を行い…とこれまで経験したことがないことばかりを行ってきた。

この経験があったことで英語弁論大会にも出たことがある。

もう1つが生徒会だ。自分はこれまで人の前に立つことをしたことがなかった。しかし、やってみたいという思いもあった。そこで先生に言われた言葉がある。

やりたい気持ちと、やりたくない気持ちが半分半分なら、やって後悔した方がやらないで後悔するよりもずっといい

この言葉は今でも記憶に残っている。結果的には3年の文化祭で引退するまで居座り続けることになった。

もちろん1つ1つのことを詳細に書きたいが、制限があるのでこの辺で留めておく。

主にイノベと生徒会、この2つが自分を大きく変えた中学校時代はとてもいい意味で色濃く記憶に残っている。

高校進学後でも、イノベを続けている。ただ、イノベは中学校2つの代表生徒だけで福島市チームは構成されていたため、メンバーが高校進学によりだいぶバラバラの高校に行った。なので、メンバー条件を福島市内の高校に通う高校生にして活動を拡大しようとした。そして、名称、ロゴを変更するに至った。

F-City Creators Network(FCN)」である。

FCNでは主に「福島市高校生フェスティバル」、台湾渡航を行ってきた。もちろん他のことも行ってきたのだが、それらを書くと制限を超えるので省略する。

高フェスは、福島市内の高校に通う高校生が主に文化系の発表を行うことで高校生の元気さをアピールする狙いがある。これまで一昨年と去年の2回行っており、今年も実施予定だ(コロナがどこまで影響するかは分からないが)。

台湾渡航は中学校から続けている活動だ。交流の他、相手校の文化祭に参加させてもらったり、有名な観光地に行って台湾のことを知ったりした。

それだけではない。福島市の総合計画会議にも参加させてもらったり、市内の高校生や他県の高校生との出会いも経験したりと、数々の経験をしてきた。

学校生活では、中学校同様生徒会に入った。経験を生かす目的である。主に学校行事の運営を行ってきたが、今年度はまだ大して何もできていない状況だ。通年では5月いっぱいで引退となるのだが、今年度の1年生が入っていないので、引退しようにもできないというのが現状だ。

そんな紆余曲折を経て出会ったのが「みらジャパハイスクール」である。これは「未来の日本を作るのは私たち高校生だ!」の略称である。今、新型コロナウイルスの問題が日本含め世界を駆け巡っている。そこで日本の対応に疑問を持った高校生で、本を作っちゃおうぜということで生まれたのがみらジャパである。初めは20人だったが、なんやかんやあって17人になっている。

高校3年になり、受験を考えなければならない時期だが、勉強だけが大事だと思っていないので、活動に参加している。