未熟児で産まれ、体力がないため1、2歳頃までは何か食べては寝るという生活を繰り返していた。その頃まではあまり話しも泣きもせず静かで、一度ベビーカーからずり落ちた時も落ちても泣かなかったせいで母と姉に誘拐されたと勘違いさせたこともある。
しかし育っていくうちにイヤイヤ期に入ると母を大変困らせ、ついには母に「もう育てられない、施設に入れたい」と言われてしまった。この時から私は家族も他人だということに気付き始める。
3歳になり、「れっつらっくご〜」というCDつきの落語の絵本を買ってもらい、そこから自主的に落語をはじめた。その頃には幼稚園でもおままごとで演技派だということで友人から人気だった。
小学生になってからは馴染むまで毎朝泣くような子供であったが、慣れてくると身長が小さいからと揶揄われると進んで喧嘩をしに行くようなヤンチャな子供になった。しかし人よりも文字を覚えたり計算を覚えることが遅く、親に心配をかけたらしい。また小学1年生から水泳、習字、ギターの習い事をはじめた。習字は小学校卒業と同時にやめることとなった。他には小学五年生からオールイングリッシュの学童に通いはじめ、全く分からなかった英語をリスニングとスピーキングのみは日常では困らない程度になり、英検を受けはじめた。
小学四年生頃になると突然読書に火がつき、むさぼるように毎日色々な本を読むようになった。特に好きだったのはミヒャエル・エンデさんと香月日輪さんの本だった。
小学五年生頃になると同級生が「ゲイ」や「レズ」という言葉を差別用語として使っているところを見て、違和感を感じた。身近に性的マイノリティの人がいた私からするとそのような人たちは特別変なことではないと思っていたのだ。
中学生になると途端に静かな生徒になり、学校でもなるべく目立たないようにしていた。部活は演劇部に入り、文化祭の時のみは学校でも生き生きと舞台に立っていた。演劇部では1年生の時から役をいただき、2年時には部長となった。しかし部長になってからは下の世代と意見の相違からよく衝突し、途中一時期部活に行くことをボイコットするが、結局は中学生最後の公演まで所属し続けた。その頃から脚本を書くようになった。
また中学一年生の時の夏休みにオーストラリアに約3週間の短期留学に行った。ホームステイは他にもう1人の友人と2人で一つの家庭に行ったため結局は自力で頑張ったとは言えなかったが、それでも実際に海外に行ってみることで異文化に触れ、刺激を受けて帰ってきた。特にアボリジニのことを知らなかった私はオーストラリアで習うこと全てが新鮮で衝撃的だった。
また中学生になると自分がもしかしたらただのヘテロセクシュアルではないかもしれないことに気付き、自分の性とも向き合うようになった。
しかしまたこの頃、勉強があまりできなかった私は母に優秀だった姉と比べられてストレスがたまり自殺願望を抱きはじめた。また母に「あんたなんか産まなきゃよかった」と言われ、自分の存在意義を見失い精神的に不安定になった。
高校受験は第一志望の私立の受験日に緊張のあまり体調を崩し、第一志望校には落ち、第二志望の私立高校に特待生として合格し、そこに通いはじめた。
高校ではクイズ研究部に入るも、他の習い事であまり参加できず、他の同期から圧倒的に置いていかれる。しかし高校二年生の夏からプログラミングスクールに通うようになり、学外での活動は充実していた。
勉強面でも辛いことが多く、高校二年生になると漠然としたストレスが積み重なるようになった。そんな時に高校が三ヶ月の中期留学を開催することを耳に挟み、親に相談したところ一度海外でリフレッシュすることを勧められ、高校二年生の冬から高校三年生のはじめまでニュージーランド留学に学校代表として参加することとなった。当時の担任からは大反対され、最後には突き放されるような事も言われたが、私は最善の道だと信じてたために飛び立った。
ニュージーランドでは日本で私が日々感じていた違和感がなく、ほぼストレスのない生活を送れた。強いて言うならはじめの方に通っていた現地校の生徒に英語が分からないだろうと思われて英語で罵倒されていたが、その後私が分かっている故を伝えた後は受け入れてくれるようになった。
ニュージーランド留学から帰ると三年生になっており、クラスが変わっていた。クラスでは既にグループができていたため、私はクラスにあまり馴染めなかったが特に気にはしていなかった。帰国後はひたすらAO入試に使えそうなことを勉強し、受験に備えた。そして私は第一志望であった津田塾大学総合政策学部にAO入試で入学した。
津田塾大学入学後、新歓などが行われない中、私は初めから決めていた一橋大学の落語研究会に所属した。その後、苗ぷろ。の新歓に参加し、加入した。