のあん
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ヒストリー

出身地

愛知県

幼少期の暮らし、体験

​両親が女の子が欲しいなとのぞんで産まれた長女だったので、両親はよく溺愛してたと言っていました。お母さんより断然お父さん大好きな子で、この頃からイケメンに目がなかったそうです。そんなマイペースな不思議ちゃんでした。
この頃は​外で遊ぶことの方が好きで、滑り台を走り降りたり、登るように作られていない遊具を登って行ったりと、大人をヒヤヒヤさせる動きをする子​でした。ですが、絵を描くのが嫌いだった訳ではありません。幼稚園の工作の時間も大好きでしたし、家ではよく家族の絵を描いていました。しかし独特な色使いをする子で、肌を描こうとした時、大体の子が肌色で描いていましたが、私は「太陽の光に当たっているから赤色になるんだよ!」と肌を赤色で塗るような絵を描いていました。
​初対面の人と話すのは苦手で甘えん坊なので、初めてに幼稚園に行った時、母と離れるのが嫌で大泣きしていました。外で遊ぶのは好きでも運動神経は壊滅的になかったそうです。物を作るにも不器用で、やりたいとごねてはじめてもなかなか上手くいかず、よく泣いていました。とても手がかかる子だったと思います。
この頃は絵を描く夢は持っていなくて、仲の良かった子と同じ仕事住みしたいというだけで、その子が言っていた婦人警官になるのが夢でした。

中学・高校時代

中学の時は美術部に所属しており、主に水彩の風景画を描いていました。1年生の1番最初に描いた絵を全国教育美術展に出品し、そこで特選を取りました。それと同時にうちの美術部が全国2位に輝き、そこから自分の絵に少し自信が持てるようになりました。
​2位になったおかげで、豊橋を代表する絵を描くように市からうちの部がお願いされました。その絵は5m×5mの大きさになる布に、豊橋をアピールするものを詰め込んだ1枚絵を描くというものでした。それと同時に私は部長になったので、絵のアイディア出しから、絵を描く時の指示までしていました。中学生の頃に出展した絵は、全て商を取りました。
高校生でも美術部に入部し、やってみたかった油絵を始めました。絵の大きさはだいぶ大きくなり、