将来の夢は「魔女」か「忍者」だった。なにか特殊な能力を得たかったようだ。
絵を描くのが好きで、クレヨンの黄色とピンクを混ぜたらおいしそうな卵色になることを発見しずっと卵の絵を描いていたり、母親から聞いた食物連鎖の図を絵に描いたりしていた。
5歳からバレエを習い始め、舞台で表現する楽しさを知る。
6歳から12歳までヴァイオリンを習う。ヴァイオリンを選んだ理由は、周りにピアノを習っている子が多すぎて違う楽器をしたかったから。
代々続く職人の家に生まれ、文化的に豊かに育っている自分を誇りに思っていた。
その分、チェーン店やマンションが増えてきていた京都の街並みに不満を感じていたり、世間の感覚と自分の感覚にズレがあることをストレスに感じて、しばしば学校に行かない日があった。
吹奏楽部に所属し、テナーサックスを吹き始める。
高音と低音の間の音域を持ち、木管楽器と金管楽器の間の役割を持つことが多いこの楽器の、どんな楽器とも合わせられる柔軟さと、固定の所属グループがない感じのポジションに妙なシンパシーを感じていた。
中学2年生の冬に京都府下の吹奏楽選抜バンドの中学生の部オーディションに1位で合格する。楽器の腕前に自信を持ち始める。
部活では幹部のうちの一人であり、基礎合奏の指揮を担当していた。
単調な基礎練習をいかに楽しくするかを考え、最初に面白い話をして注目を集めたりロングトーンのテンポをノリのいいドラムで刻んでもらったりと、私が担当する日を楽しみにしてもらえるように工夫していた。
高校は進学校に入学する。
学問の本当の面白さを知るための「探究活動」という授業に惹かれて入り、小さい頃から疑問を感じていた京都の街並みの変遷とそれに対する京都人の反応をテーマに取り組んだ。
しかし、それ以外の受験のための勉強には身が入らなかった。
感覚的に落ちこぼれたと思い込んでいて、体調を崩したタイミングとも重なり、高校3年生の秋ごろからほとんど学校に行かなくなる。
そのため勉強も次第に追いつかなくなり浪人することを決める。
浪人期はほとんど自宅浪人をしており、受験のための時間というより「人生の休暇」のような感覚で過ごしていた。
1浪で広島大学に入学する。
サークルに入る気はなかったが、1年生の5月に縁あって東広島市のまちづくりを学生目線で考える団体の立ち上げに関わった。これが後の学生団体mahoLabo.である。
小さい頃から考えていた「いいまちとは?」という問いを真剣に考える場所を得ることができ、仲間との深い会話によって自分の思考を洗練させていく時間にもなった。
1年生の12月に学生団体mahoLabo.の代表となり、組織作りについて考えるようになる。
2年生は団体の代表としての自分を作っていくことを中心にしていた。
新入生の迎え入れ方や次の代への引継ぎ、既存メンバーのケアなど、システムを考える頭と人と向き合う心を行き来していた。
また、東京のメディアと共同でフリーペーパーを作る機会を頂き、EXILE 橘ケンチさんにインタビューするなど、今後の糧となる貴重な経験をさせていただいた。
現在は代表を次の代に引継ぎ、自分が心から惹かれるもの・面白いと思うものを大事にする時間にしている。