長崎県佐世保市で生まれ、幼稚園卒園までに佐世保→福岡→下関と転々とする。弟が悪ガキだったため小さいときから平和主義の子供だった。また、ドラゴンボールが大好きで親にいやがられるくらい語っていたらしい。その名残かドラゴンボールはもちろん大好きだし、今も好きなものを語るととまらなくなっちゃう、、、。幼稚園でスイミングスクールに通いはじめた。けっこう泳げるようになった。小学校では宮崎→鹿児島→鳥栖とまた転々とする。最初の低学年は宮崎に住んでいた。おじいちゃんから買ってもらった九九のおもちゃにはまって計算大好き少年になった。おかげでずっと算数、数学は得意になる。一年生の時、スポーツテストでB判定だったのに二年生でなぜかE判定になりとてつもないショックをうけた。また、このころから約10年の付き合いになる極真空手を始めた。この時は鹿児島に住んでいた。毎日のようにそとでも友達の家でも遊んでたのしかった。おじいちゃんに買ってもらった歴史の漫画を読んで歴史にものすごくはまっていった。(数学と日本史はおじいちゃんのおかげだと感謝している。)宮崎から続けていた極真空手ではじめて大会にでたが、思うように結果が出ずいまだに悔しかった事を覚えている。その後も大会にはでても全く結果が伴わず親に怒られ、しかも弟は入賞したりしていたため苦痛で仕方なかった。今も住んでいる鳥栖に引っ越す。誰とでも仲良くなれる自分の性格上友達づくりには困らなかった。しかし、環境の大きな変化からか体調がおかしくなり5年生のときは毎日頭痛と闘っていた。空手は佐賀のレベルが高く、死ぬ気でしがみついていたら県内では結果が出始めて自信につながった。(県大会優勝二回、準優勝一回。)。6年生のときの担任の先生が自分のことなんでもをよく認めてくれていて自信がとにかくついた。
地元の中学校の治安が悪かったのと、自分自身も頭が周りより良かったため進学校の中高一貫校に受験して進学。しかしここで自分が井の中の蛙だったことを知る。成績もどんどん悪くなり宿題もぜんぜんしなくなってしまった。しかし、3年生の時にとてつもなく怖い先生が担任(厳しいけどいい先生)になったのと、怒ってくれる友達ができ改心することができた。長年続けていた空手、中学一年の時に九州二位、二年の時にずっと勝てなかった宿敵を倒して九州一位になる。しかし、鳥栖から佐賀に通うことの時間的余裕のなさと中学生になり練習を大人とするようになってあまりのきつさにモチベは下がり続け、中三の九州大会で同じ道場の友達に負けてやめることを決断した。高校では友達がいて好きだった卓球部に入る。これがとてつもなくたのしくてドはまりした。しかし二年の末に部内の大喧嘩を止められず負い目をかんじて退部したが、やはり好きだったので戻ることを決断した。しかしその関係で最後の総体で実力はあったのに個人戦にでれなかった。勉強は頑張った。三年間特進クラスにいた。偏差値も65前後をキープして受験に自信満々に臨んだがセンターでやらかして目指していた九大を諦める。熊大に下げて余裕をかましていたらまさかの受験落ち。E判定だった当時の彼女や親友たちは全員熊大進学。当時の記憶はない。とても病んだ。
高校の時の先輩が大学で卓球部にいたため、高校最後の総体に出れなかったくやしさもあり卓球部に入部。いろんな人とあい、僕が佐賀大にきた理由を模索。佐賀だからこそであえた素敵な人たちや、したい研究もみつけたためなんとか立ち上がる。部活もキャプテンをまかされ死ぬ気で練習したがコロナで大会がなくなり、空虚な気持ちに。今は部活を引退してできなかったいろんなことに挑戦していきたい。