小野山 智子
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ヒストリー

出身地

中学生まで兵庫県ですごしたのち、高校から福岡で過ごしています。

幼少期の暮らし、体験

幼少時代は対人関係がニガテで、とにかく図書館の民となり、読書に励む日々でした。本の中の主人公に自分を当てはめて、孤独感から逃げ、本の世界の中で登場人物(主人公の仲間や友人)と遊んでいたのかもしれません。

絵を描くことも大好きで、よく自分で漫画や絵本を書いたりしていました。

本当は人が大好きで、人間と関わりたい気持ちが強い、しかし、関わり方が分からなかったことから、かなり葛藤していた幼少時代だったと思います。


中学・高校時代

中学時代は小学校六年生のころから興味を持ち始めた発達障害や心理に関して調べるか、友人とプリクラを取りに行くかのどちらしかしていない日々でした。

 しかし、成績が悪すぎて塾を辞めさせられたことから、勉強に対する火が付き、中学三年生のころにはすべての人間関係を断ち切り、いつも一人で勉強をしていました。おかげで偏差値が20伸びたうえに、頑張る楽しさを知りました。

 また、どうにか入塾テストで受かったトップ校合格を狙う塾との出会いによって、頑張る人ばかりの環境に身を置く体験をし、頑張ることへの恥がなくなり、さらには友達もできました。

 受験勉強を契機に、人間関係も好転し始め、対人スキルを伸ばすことが出来、社交性を身に着けることが出来たと思います。今ではよく社交性を褒められるまでに成長しました。すべては私が受け身ではなく、受動的に頑張ることが出来るようになったことが根底にあると考えています。

 また、中学二年生のころに母親から進められていった福祉施設のボランティアにより、社会福祉に関する興味関心はさらに強まり、将来は福祉に関する職業に就きたいと思い、保健師を志すようになりました。

 高校時代は陸上競技部でした。昔から走ることに自信はあったのですが、陸上部では圧倒的劣等生。元々自己評価が低い方だったのですが、劣等感はさらに強まりました。しかし、つらい練習は、私に健康と仲間との青春を与えてくれたと思いますし、なにより人は人に支えられて生きているということを痛感させてくれました。生まれて初めての小集団への所属は、集団の難しさや集団によって生まれる力、他にも、「陸上部」という肩書によって周囲の対応がよくなることを教えてくれました。

 保健師になるために理系に進んだのですが、将来に関してしっかりと考えていく中で、養護学校の先生になるか、それとも昔から得意だった美術の技術を磨き、障害を持つ人にも勇気を与えられるような存在になるか、などと進路を迷うようになり、結果として美大を目指すようになりました。

 美大受験では、家庭の所得によって変える画材や受験できる大学に格差があることを痛感し、また、地方の教育のレベルの低さ、東京都の教育の質やチャンスの格差を感じ、憤りを感じたのを覚えています。また、美術とは才能と努力が大切なものだと知り、普段では触れられない独特な美大受験生の世界に触れることが出来たので、いい経験になりました。


大学・専門学校時代

結局志望大学は全て落ちてしまい、私大は地元の文系次第しか行けなかったので、西南学院大学の昔から興味のあった社会福祉系の学科に進学しました。

当初は現実を受け止めきれず、自分の中での理想や、プライドとの葛藤に苦しんでいましたが、社会福祉を学んでいくうちにとても楽しくなり、今ではこの進路でよかったと思っています。

また、入学当初は自分のスキルを上げたいという成長欲求が強く、むやみやたらにボランティアやイベントに参加していました。その中での出会いから、たくさんのことを学び、人としてとても成長できたと思います。

職歴

現在はドトールコーヒーショップ、焼き鳥屋さん、就活支援施設でアルバイトをしています。

以前は家庭教師や日雇いの引っ越しやさん、居酒屋、ホテルでの配膳、工場での単純作業などを経験していました。

また、「プラチナ未来人材育成塾」という中学生に向けたイベントでのチューターや、佐賀県玄海町のまちづくり企画への参加、子供たちのキャンプの同行なども経験しました。