熊本県のかなり田舎で生まれ育ちました。家族はみかん農業を代々やっていて、4人きょうだいの3番目です。
小さいころからとても引っ込み思案な性格で、自分から何かアクションを起こすことは苦手でしたが、やり始めたら最後までしっかりやりたい、負けず嫌いなタイプだったと思います。
保育園、そして小学校の同級生はなんとたったの3人で、しかも全員男の子という今思えばすごい環境で生活していました。でも同級生の人数が少なかったおかげで、やらなくてはいけないことは全部自分たちで考えて行動に移す力が身につきました。また家族や学校、地域の方の温かさに見守られ、習い事や地域のイベントなどやりたいことには何でも挑戦できる恵まれた環境で幼少期を過ごしました。このころは海外やボランティアなどについて考えるきっかけもなく、子供のお世話が好きだから、という理由で将来は保育士になりたいと夢みていました。
中学校での転機は、英語への興味が出たことです。当時の英語の先生が行う授業がとても大好きで、なんとなく将来英語を使ってみたい、と考えるようになりました。この時から海外への憧れのようなものが大きくなっていったのは事実ですが、まだ将来の夢として国際問題に取り組みたいとは思っていませんでした。
高校は県立高に進学し、勉強と部活の両立を頑張っていました。やはり英語への熱はほかの教科よりあったのですが、ある社会の授業で国際問題や世界の貧困状況を聞いたとき、とても衝撃を受けました。自分の置かれている生活環境とまるで違う現状を知った時、自分の中で、この人たちのためになにかしたい、という漠然とした思いや自分が何かしなきゃ、という義務感のようなものが生まれました。このきっかけもあって、大学は国際関係の学部に行きたいと考えるようになり、現在の私につながっています。
しかし、高校を卒業するまで、海外に行った経験は0で、海外の人と交流する機会もほぼ0に等しく、18年間外の世界を知らない小さな世界で生きてきました。
高校でのきっかけで、国際関係学部に興味を持ち、広島大学総合科学部国際共創学科を志望して、無事入学することができました。この学科は私たちが1期生で、授業はすべて英語で行われる、という海外経験0の私にとってはとてもハイレベルな環境でした。最初の方は、案の定、授業についていくのが精いっぱいで、ほかの学生の経験値や語学力の高さに引け目を感じる毎日でしたが、それでもいろんなバックグラウンドと個性を持つ同級生や留学生と同じ教室にいる、という環境はとても刺激的で、毎日いろいろな視点から国際問題について考えるきっかけをもらえています。
先ほどもお話しした通り、海外経験0だった私は、とにかく長期休みを利用して外の世界に触れる努力をしようと決め、1年時の夏にオーストラリアへの短期留学、春にフィリピンへのスタディーツアー、そして2年時の後期にタイへの半年間の交換留学を経験しました。どの機会でも本当にたくさんのことを学ぶことができ、自分の将来の選択を変えてくれたものばかりです。特に、フィリピンでのスタディーツアーをきっかけに、東南アジアの貧困問題、子どものサポートなどを勉強したいと考えるようになり、タイの大学では子どもへの福祉、また東南アジア地域の都市発展などを勉強しました。
それから、もう一つの挑戦としてこのSmiles Productionへの入部があります。インドという遠く離れた場所にいる子ども達に奨学金支援などの国際協力をやっていること、そして学生だけでこんなにも本格的に活動していることが魅力的で入部したのですが、実際入ってみると本当に熱い思いを持った人たちばかりが集まったすごすぎる団体でした。活動の中で、同じような目標や問題意識を持つ熱い同級生、先輩、後輩に囲まれて、毎回刺激を受けると同時に、自分の成長、団体の成長を感じられる素敵な環境に入れたことをとても誇らしく思います。3年生の私はそろそろ引退の時期ですが、最後の最後まで、みんなと全力の国際協力をやり通せたらと思っています。