川口 大翔
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ヒストリー

出身地

福岡県福岡市

幼少期の暮らし、体験

1999年11月19日、福岡県福岡市に生まれる。父親に足を海に少しつけられただけで大泣きし翌日風邪をひき、親をビビらせるという話があるが健やかに順調に成長。

小学2年から何かスポーツを始めたいと思い、空手、サッカー、野球の3つのスポーツの体験に行く。野球とのなぜかフィットして、軟式野球を始める。福岡ボンバーズ8期生として入団。

低学年では4番キャッチャーを務めていた時期もあったが高学年になるといつの間にか9番ファーストへ。終わりが近づくにつれ、バッティングが開花し始め、終盤では3または5番を務めた。

最後の大会では126チームの中で行進賞と優勝旗を見事獲得。行進賞の景品はたくさんのミカン。



中学・高校時代

中学では軟式のクラブチーム白龍ベースボール5期生として入団。2つ上や1つ上のエースの圧倒的さにビビりこのようになりたいと思った。だがなれなかった。中学から本格的にピッチャーを始める。一つ上の代から投げさせてもらえ、秋の市長杯を劇的な形で優勝。

自分の代では思うような結果が残せず、最後の全国大会をかけた大会では、いつも負けているチームには勝てたが、いつも勝てていたチームには勝てずに後悔が残る結果となり、最終的に残った成果は準優勝のみとなった。

高校は筑前高校に入学。硬式野球部に所属し、1年の秋に、ベンチ入りをし、一つ上での夏の大会では、県大会まで進むことができ、中学と同じく一つ上の代でそこそこの結果を残すことができた。

自分の代の最初の大会では当日になり熱を出してしまったり、最後の大会の前には疲労骨折をしたりして、チームに迷惑をたくさんかけた。最後の大会では、勝てると思っていた相手に10対9と惜敗。ちなみに最後のバッターは今も西南学院大学のチームメイトの瀧口君。最初打っていただけにあそこは打ってほしかった。瀧口君のせいで負けたと言っても過言ではない。勝つことの難しさを再び痛感。

大学・専門学校時代

西南学院大学に進学。どこの大学に行っても野球はすると決めていたので、迷わずに野球部に所属することを決めた。まだ思うような結果は何一つ残せておらず、球速も上がらず、いろいろ試行錯誤している。


職歴

大学に入る前の春休みに、人生始めてのバイトを始める。日雇いの仕事で初めて親の言うお金を稼ぐことの大変さを痛感。一瞬にしてお金が無くなることも味わった。

大学一年春

様々なバイトに落ち、近所で時給のよさそうな清香園ではじめて長期のバイトをする。仕事内容は充実していたが、たばこ喫煙者率が高く、喫煙者ネットワークが形成され常にネットワーク外に配置された。タバコと人間関係に嫌気がさし10か月で退職。

一年冬

ヤマザキパンの工場でと夜8時から朝の5時まで働き、社会の裏側を見た気がした。自分の意欲をそぐのは9時間で十分すぎた。一回目にして二度入らないことを固く決意した。こういう人がいることで社会は回っているということに気が付けたいい機会だった。

大学二年春

しばらくしっかりとしたバイトをする期間が空きお金が底をつき始めたのでまた焼肉店のなべしまというところではたらきはじめる。主な仕事は皿洗いだったが、想像をはるかに上回るきつさでわずか1か月で退職。気まずくなり、いまだに制服が返せていない。

二年秋

再びバイト休養期間を挟み、再び貯蓄が底をつきはじめ、ほっともっとに就職。ずっとここで働きづづけると心に誓い日々弁当を作っている。