平成12年3月25日鹿児島市の病院で産まれる。
7人家族の次男!
幼稚園は地元鹿児島に通い、小学校は1年生は鹿児島、2年生は大分県別府市の某所、3年生〜5年生2学期までは、さらに別府市の某所、5年生3学期〜卒業までは、大分市内の小学校に通うという、転勤族の生活をしてきた。そうして、さまざまな出会いを得ることができた。
〜野球編〜
野球を始めたのは、小学校1年生からだ。物心ついた時には、家にバットやボールがあり野球を始めたのは父の影響である。
1年生から6年生までは、軟式野球のクラブチームに所属していて、5年生の頃から本格的に試合に出るようになった。
市内大会優勝や、県大会3位の経験などがある。
中学校は、鹿児島に戻り、鹿児島の中学校に通う。
そこで、大分の方言が訛っていると、とても皆から馬鹿にされて恥ずかしい思いをする。しかし今考えてみると、鹿児島の方言の方が、訛っていたんだなと感じる。
中学3年のころ、高校の進路を考えるようになり、野球ができる進学校ということで、鹿児島玉龍高校に進むことを決意し、受験勉強を始める。
そして、合格し、玉龍高校に入学した。
玉龍高校では、文系のクラスに進み、楽しい3年間を過ごした。
〜野球編〜
地元中学校の部活動に入部する。
2年生の頃からレギュラーとして、試合に出ることになる。3年生ではキャプテンに就任した。
3年次には、チームとして数年ぶりの県大会出場した。
とても楽しい中学校野球だった。
高校では、1年夏からベンチ入りすることができた。そして、2年秋からレギュラーになることができ、たくさんの経験ができた。
高校野球での、後悔といえば怪我が多かったことだ。右肘の手術や、脱臼の手術など、様々な部分を怪我してしまった。満足にプレーできた期間が短かったことがとても悔やまれるところだ。
しかし、最後の夏最後の試合で先頭打者本塁打を打てたことはとても良い思い出である。
高校部活を引退してから、進路について考えるようになる。自分の中では、中学の頃同様、野球もできて、勉学を疎かにしないところを考えた。そこで出会えたのが西南学院大学である。
部活動引退時点では、合格確率は20%以下であったが、死に物狂いで勉強し、なんとか合格することができた。
そして今、西南学院大学人間科学部社会福祉学科に在籍している。
〜野球編〜
大学では、レギュラー定着には至らなかった。
そして今年の夏から、自分たちの学年と話し合った結果学生コーチになった。最初は選手を辞めると言う苦渋な決断に涙した日もあったが、今では、学生コーチになって選手と共に全国大会を目指せることに誇りをもって頑張っている。
西南学院大学硬式野球部では、他では絶対学べないようなことや、人間的成長ができると確信している。仲間と高め合って、全力で残りの大学生活を楽しみたい!!!