島袋 友寛
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

日本🇯🇵

幼少期の暮らし、体験

あだ名は基本トモでした。

この頃から運動嫌いが出てて、唯一好きだったのはブランコだったと思います。

手が汚れるのもなんか無理で泥団子作りとかもギリギリまでやらなかったです。

小学校に入学して、いまでも覚えてるのは一年生の時に給食中ずっと喋ってて給食が食べきれなく、給食中とか話し合いとかの机の形をふつうの授業の形に戻されて1週間孤独に給食を食べたことです。


三年生くらいからはちょっとずつ太ってしまい、六年生になると150センチで50キロというちょいぽちゃみたいな可愛い子でした。

中学・高校時代

小学校を卒業したら、あだ名が苗字寄りに変換されました。

元は島袋で、しまちゃん、ぶくろ、ぶっくろー、などなど多分あだ名が多い選手権だったらそこそこな気がします。

中学校の時は、部活にはあまり行かず、委員会とかの活動に熱心に取り組んでたと思います。そして相変わらずスポーツが嫌いでしたが友達はバスケ部かサッカー部のひとが多かったので、共通点のない中よく仲良くしてくれたなぁと思います。

中学の頃の記憶があんまりないのですが、意味もなく暇つぶしのために友達といろんなところに学校帰りに歩きまくるということを毎日のようにやってた気がします。

それで帰りは毎日19時でおなかすきすぎて死にそうになってる、みたいな(笑)

受験は、もうほんとに数学と理科勉強してくなさ過ぎてとりあえず集団討論は得意だったから推薦で!て感じで推薦でいけて、制服はブレザーでって感じの選び方で終えました。

平坦な人生こそ楽しいです。

高校生の時は、吹奏楽部にはいってトランペットをやってました。同学年のトランペットの子が一人いて二人でトランペットをやってました。もう一人の子は中学からやってたのでとても上手だったので、頑張れたのかなーと思います。

ちなみに高校の時のあだ名はしまぶーが75%をしめてたとおもいます。

高3では指定校と一般で3か月くらい迷った結果、一般受験にしたのをいまでも覚えています。特に誰にも相談することなく、一人で迷ってたのも自分らしいな~と思ってます。

その後は、塾に行けなかったので、学校の先生に相談したら、世界史と英語は追加補修を開いてもらえて6月くらいから少しづつ勉強してて夏休みが終わると7:30~17:00まで学校で勉強してたかな、と思います。

こんないい面ばっか書いてますが、気分転換に2週に1回指定校で決まっていた子とスタバに行っては携帯で青鬼をしたり、勉強の愚痴を聞いてもらったり、テスト近くなると教えたり、、ととても充実?してたのかな~って思います。

もちろん文化祭も全力で楽しみたかったので、勉強は家かみんなのいないところで、と思って放課後残って準備とか夏休みの集まりとかは結構積極的に参加していました。


まあそこからが受験の地獄だったのはあと50年くらいは語り継ぎたいですね。

子供ができたら高校の偏差値はそれなりに必要だよ。ってな感じで伝えたいです。

どんな意味の地獄かというと

・指定校が9月で決まる

・AO入試を夏頑張った人は11月にはほぼ決まってる

・専門学校の人はほとんど勉強しない

クラスの1/4くらいしか一般受験がいなかったんですよね、

周りは指定校で決まっててめっちゃ遊んでる中自分だけ遊べない~って毎日のように後悔してました。

もう11月ごろになってくるとまわりとの関係なんかどーでもよくなっちゃって教室でずーっと勉強してたかなって思います。

スタバの子とだけ仲良くできてたから、満足だった感はありました。


12月にはいり、ずっと模試がE判定で専門学校のパンフレットを取り寄せ始めていました。ウケるって感じですよね。

なんかとりあえず勉強しなきゃって思いと取り寄せてみたモノのここまできてなんで専門学校にいかなきゃなのって思いがあり、専門のパンフはしまい、がむしゃらに勉強しました。

年があけ、1月4日、いまでも覚えていますね。

目が覚め、センターの過去問を解いてみるとなんでかほとんど〇っていう。

自分が一番怖かったです。

それまでは全教科6割以上で頑張った自分!って感じだったんですがその日を境に平均85%を超えない日はなく、本番も緊張のキの字もないくらいいつも通りができたので、同じ位取れてセンターリサーチもいい感じの判定をいただけて無事すべり止めのもう一つの大学には受かりました。

そこから3週間後には第一志望の立教大学経営学部経営学科の試験があったのでひたすら頑張ってました!

と、いいたいところなのですがガス欠で無理でした。

結果、第一志望の立教大学には落ちて、現在の武蔵大学に通うことになりました。

こんなかんじで島袋の最初で最後の受験は幕を閉じました。

今考えると、第一志望におちてもいいような言い訳を無意識に作ろうとしていたのかもしれないな~って感じですね。

まあそんなこんなでむかえた3月ですが、卒業シーズンで、月に1回しかなかった学校は卒業式の練習とか、お世話になった先生への進路報告とか、世界史・英語に関しては来年にむけた指導方法の改善点を先生と話してみたりとか、慌ただしかったです。

そして卒業式前日の練習で、いきなり壇上に呼ばれ何かと思ったら文化優良生徒に選んでいただけました!

初めて壇上で賞状を渡されたので素直にうれしかったです。


高3の時の話が一番自分の中で充実してた気がするので長ったらしく書いちゃいました。

みなさんもぜひお子さんができた時にこの大学受験の苦労話を少しでも参考にしていただければと思います。



大学・専門学校時代

大学1年生の入学式前日の英語のテスト、私はウェルカムサシパーティーにいってなく、友達0でのスタートでしたが、このままではやばいと思って、隣の席の子に話しかけたのを覚えてます。われながらすごい行動力だな、と思ってます。

ですが、新歓のブースに友達と回るのが途中で疲れてしまって、結局一人で回ってました。

ゼミ連に入ったきっかけはいまでもあんまりよくわかんなくて、でもブースで話聞いていいな、と思った記憶があるのでその先輩には感謝です。


希望部署は、広報局以外にしました。

デザイン系の才能がないのと、パソコンが得意ではないという理由でやめました。

そして、配属されたのは今となっては局長をさせていただいてる営業局でした。

めちゃくちゃ懐かしいです。ほんとに。


学業のほうでは、ゼミが楽しかったです。一年生の前期は勝手に割り振られるわけですが、そこでとてもいい教授といいゼミの人たちがいるゼミに入れました。

みんな個性の塊すぎてうるさくて、いまでも同じゼミに所属してますが、日に日に悪化してます。笑

もう一年生の頃の記憶はほぼないわけですが、とりあえずkemioとバーチャルおばあちゃんにどハマりしてることは変わらなかったかな、と思います。


一年生の後期からは、営業局と会計に所属して仕事してました。

そしてこの頃密かなマイブームだったあんまり見たことない俳優とかCMの真似を想像で作り上げるっていうことと、モノマネをモノマネするみたいなことをやり始めたのかなと思います。まぁ不評でしたね。

全然関係ないんですけど、こういうことって人に言われたら一気にやる気なくなっちゃうんですよね、なので振らないでください。


ゼミ連の記憶しかないんですけど、夏合宿も冬合宿も大暴れして楽しんで、、、楽しいの極みでした。

後輩にも普段の学校じゃできないようなことができる合宿にぜひぜひ参加してほしいな~って思ってます。


12月にはゼミ連の一大イベントの、ゼミ大会がありました。

ゼミ大会の運営では会計だったので、モノの管理をするのと同時に学生の誘導などをしてました。

他のみんなは司会とかやって自分だけ楽に待機してた感じで申し訳なかったです。

テスト期間は終わり、長い長い春休みに入るわけですが旅行や帰省はせず、ひたすらバイトしてました。

でも合間を縫って遊んだ思い出たくさんありましたね~。

先輩に御殿場アウトレットにつれてってもらったり、バレンタインで男女混合お菓子交換会やったり、ディズニーいったり、ノープラン宇都宮観光したり、、、

遊んでくれた方々ありがとうございました。


そこから新歓したりで二年生に飛ぶわけですが、今では営業局の長として後輩にお仕事教えたり一緒にお仕事したり、アイス食べに行ったりって感じで楽しんでます。

今度ちゃんと遊びたいですね。


もちろん授業は出来る限り出てるつもりです、、、(死)


どこに書くべきか迷った末に一番最後にいれましたが、趣味はサイクリングです。

一人でいくのが主流で、人のペースに合わせるのができないので同じくらいのペースでこげる方ぜひまったりサイクリング行きましょう。

また、RADWIMPSに中2くらいからずっとハマってるのでライブとか誘ってください。


それでは、またなにか事件があったら追記します。

職歴

高校一年生の頃からバイトしてました。

レストラン→マクドナルド→レストラン→まいばすけっと→鳥貴族→土間土間&塾(?)の先生&たまーにウーバーイーツ

って感じですね。大学1年生のころのバイト運がなさすぎてコロコロ変えてしまってました。

最近は居酒屋でおじさんにお兄さんの接客感じ良かったよ、とか言われるようになったので、愛想がよくなってるのかな〜と思います。

多分大学卒業するまではこのままこのバイトを続けるであろうと思います。

バイト変えたらすぐに報告しますね