長崎出身の両親のもと、三姉妹の次女として生まれ育った。
父の仕事の関係で育ちはずっと福岡。
とにかく身体が弱くかった。姉妹は外に遊びに行ってしまい、母曰く「ずっと一人で人形に話しかけているような子だった」そう。
室内で絵を描いていることが多く、ジブリが大好きだった。
身体が弱いことを言い訳にして嫌なことは徹底してやらない主義で祖母からは「この子に努力という言葉はないのでは?」と言われるほど甘ちゃんだった。
両親の勧めで中学受験をするも失敗し、バス電車バスで約2時間かかる中高一貫の女子高に進学することに。通学だけで体調不良になっており、体力をつけるため運動部に入ることを決意。
・サッカー部
ユニフォームが格好いいという理由でサッカー部(クラブチームでもあった)「福岡Jアンクラス」に入部。ここで人生を変える先輩に出会う。
24歳だった当時のキャプテン、河島美絵さん。プロリーグに参戦するという高い目標を掲げ、我武者羅に行動する背中を見てきた。そして実際に私が高校2年の時にチームは念願のなでしこリーグに参戦。夢を追う恰好良い女性になりたいと将来像が決まった。
・NZへのホームステイ
英語教育に力を入れている学校で、高校1年生の時NZに短期留学した。英語を使って想いが通じる喜びを感じたり、価値観が全く違う世界があることを知って海外に強い興味を持ち、将来は海外に関わる仕事がしたいと進路の大枠が決まった。
・受験
東京への憧れ(単純にミーハーだった)から上京を決意。第一志望は1年間留学できる立教大学の異文化コミュニケーション学部だったが、担任から「英語はツールに過ぎない。英語を使って何がしたいかが大事」と言われ、立教大学の観光学部も滑り止めに受験。結果観光学部にしか受からずそちらに進学。上京した時は心細く不安だったが1週間で慣れた。
中高部活漬けだったので大学は好きなことをしてゆっくり自由に過ごそう、と思いながら上京。2週間だらだら過ごしてみて「これでは人間が腐る。何か打ち込むものが必要だ」と気付く。
・空手部
女子サッカー部がなかったことと、日本文化として何か身に着けておきたかったことと、体験に行った団体の中で一番本気さを感じて空手部に入部。
私の代から立教大学がスポーツ推薦を再開しており、同期後輩はインハイ出場者ばかり。「経験者に一勝する」を目標にして活動。大学4年生でやっと達成した。部活動の中で人生で初めて「分かり合えない」という経験をする。違いを認め合うことの大切さを知った。
・ゼミ
東南アジアを専門にしている教授のゼミに所属。海外に行って活動することも多く、新しい価値観にたくさん触れた。研究テーマは「マレーシアにおける多文化共生」「オルタナティブツーリズム」。卒論が必須でなかっため就活の忙しさを言い訳に書かなかったのは後悔している。
・学生団体
3年の3月から友人の紹介で人材育成のスクールに所属。その中にあった学生団体でリーダー経験をする。人間努力をすれば、性格も変えられるということに気付く。そのためには仲間、環境が必要と考えるようになる。就活を経て、観光系にも内定をもらったが、自分が成長できたのはスクールのおかげだったので恩返しがしたくてそのスクールの運営会社に入社した。