中田 智文
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ヒストリー

出身地

京都府

幼少期の暮らし、体験

(4歳頃?後ろが自分、前は弟)
幼稚園の頃は、自分が慣れない環境に行くのが怖く、常に親の後ろに立っている性格でした。

小学二年生の頃、近所のお姉さんにソフトボールを誘われ体験入部へ行き、ソフトボールを始めました。友達と一緒にソフトボールをするのがとても楽しくて、毎週の休日はとても楽しみにしていました。

楽しみすぎて、グラウンドの門が空く前から、学校の門前で待っていたこともありました(笑)

学校が終われば友達と公園へ行き、毎日野球漬けの日々を送っていました。また、小学校6年生の時に春と夏の二回ソフトボールの全国大会に出場しました。

中学・高校時代

中学では、学校の部活とは違いクラブチームで硬式野球をしていました。中学のクラブチームでは、投手をしており三年生の時は、チームのエースとして頑張りました。
小学校の時とは違い、勝つための練習・野球というものをたくさん学びました。

その時に、一番印象に残っている言葉は、
「もし自信を無くしてくじけそうになったらいいことだけいいことだけ思い出せ」です。←アンパンマンの歌詞の一部です。
うまく結果が出ずに悩んでいた時に、コーチに教えてもらった言葉です。いまでもこの言葉は自分を支えてくれています。

高校はスポーツ推薦で硬式野球部に入りました。もちろん高校でも投手をしていました。

(私の通っていた高校は、男子校でした(笑))

女の子との関わりも、もちろんないのである意味すごく良い環境だったかもしれないです。

体育クラスだったので、クラスメイトはみんなスポーツをしていたので競技は違えど各方面からいい刺激を毎日受けていました。

しかし、高校一年の夏に左肘を疲労骨折し、入学早々出遅れてしまいました。
左肘にビスを入れる手術を受け、回復までリハビリに励みました。

リハビリ期には、普段しない読書をしていました。
今考えるとこの時期が、僕を一番成長させてくれたのではないかと思います。
私の座右の銘でもある、「人間万事塞翁が馬」は、この時期に出会いました。

二年の秋大会では、ケガから復帰することが出来、メンバー入りを果たし京都で一位をとることが出来ました。近畿大会では、一回戦で負けてしまったので春の選抜大会には出場することはできませんでしたが、とてもいい経験をしたと思います。

高校野球では、監督やコーチに言われる前に自分が何をすべきなのかを考え行動するという力を身に着けることが出来ました。

大学・専門学校時代

私は他人と違うことをしたい!という気持ちから大学では、今まで全く関わりのない「言語」という分野を勉強しています。

フランス語を勉強しており、実際にフランスへ行き、初めて見る風景や日本と全く違う文化などに魅了され、よりフランスが好きになりました。そのおかげで勉学にもとことん打ち込めるようになりました。

言語を学ぶことが好きでなかった自分が、こんなにも言語を勉強したいと思ったのは初めてでした。それは、実際に現地の人と話すことでコミュニケーションをとることの楽しさを体感したからです。

そこで、私は以前の自分と同じような状態の人たちが少しでも言語に触れることの楽しさを知ってもらうために、「異文化カフェ」の設立をしようと決意しました。

現在はVent arrièreという団体を設立し、メンバーと一緒に活動しています。

バトントワリングサークルに入っています。
主にマネージャーとして活動しています。