とうふ
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ヒストリー

出身地

奈良県

幼少期の暮らし、体験

遊びの天才

奈良県生まれ東京育ち

奈良県で生まれた私は物心ついた頃からとにかくよく話す、よく遊ぶ子供でした。2歳で東京に引っ越しました。

ポジティブ

食物アレルギーで中学校入学までは牛乳、卵、小麦粉、大豆が食べれないという今では想像もつかない状況だったらしいのですが、母親のおかげもあり、食べれないだらけの生活だったですがまったく寂しい素振りは見せなかったそうです。

好きなことを好きなだけ

小学校では先生にも恵まれてとにかく発想力をフル回転させる日々、学校内で駅伝を開催したりお笑い係を作りライブをしたりと遊びまくっていました。合唱にも打ち込み毎週都内に通い鍛えられていました。

中学・高校時代

山あり谷あり

自分が嫌い

中学校に入ると、多くの人が経験する反抗期が僕にもやってきました。ませていたこともあり精神的に孤立していた僕は学校内でも遊ぶことで気を紛らわそうとしていました。小学校から人との共同作業が好きだった自分は、それを悪い方向に使い、友達を感化し、授業をサボったり、悪戯をしたりと好き放題していました。

恩師との出会い

そんな僕にとって大きな転機となったのが中3。関西弁の元気な担任の女性教師との出会いでした。それまでも学年の先生方は悪いことをしたら怒ってくれ、それでも学校の行事になると何度も自分にチャンスをくれて、人と何かをするのが好きな僕のエネルギーをいい方向に使えるように導いてくれていました。

人に迷惑をかけてしか好きなことをできない僕は自分のことが大嫌いでした。そんな時に出会ったのがその担任の先生でした。何度も何度も「君は本当にすごい」「誰にもない力を持ってるんだよ」ととにかくポジティブワードで励ましてくれ、沢山のことを応援してくれました。おかげで中3の頃はクラスでも学校でももちろん遊びもしていますが、沢山の人と関わり、勉強にも向き合い人として大きく成長することができました。

自分が大好き

高校に入ると嫌いなことも多く好きなことにできるようになり全部全力で取り組む日々が続きました。遊びも勉強も部活もと活動している中で、完璧な自分を思い描がく様になって行きました。自分のミスを許せず人のミスも許せず「人と関わり何かをすることが好き」だった自分はいなくなり自分の得になること以外はしないと入った風に傲慢な人間性が出てきました。人を馬鹿にし、多くの友人を傷つけ、理論武装で親にも反抗し教師にも反抗する日々、それでも自分に自信を持っていた僕はそれが正しいことをしていると思っていました。

親友と先輩

高2になりそんな僕を救ってくれたのは高1の頃の遊び仲間だった友達と、学校の最前線で活動していた1人の先輩でした。ある日その友達にかなりきつい言葉で僕の人間性を喝破され、お互いに思うこと考えてる事を全てぶつけ合いました。その日自分の傲慢さに気付かされ自分を見直すことができました。その後友達の紹介で一つ上の先輩と話をしました。先輩は自分の哲学を持っていて、苦しんでいた自分にの生き方を一緒に探してくれました。そして少しずつ変わっていこうと決意した僕はそれから部活の部長やクラスや組織のリーダー等できる限りのことをするように。「人と関わり何かをすること」+「絶対に1人の人から学べるだけ学び、自分も語れるだけ語る」を胸に活動しました。

やってきたコロナ

そんな激動の高2の終わりはコロナウィルスによってもたらされました。突然始まった3ヶ月の休校期間部活の引退試合もなくなり、学校でやりたかった事も全てできなくなりました。しかしこんな時だからこそできることをと思いFacebookで学校外とつながりはじめました。初めて行ったイベントがFlexible Airのパートナーシップを学びディスカッションするイベント。そこから視野が大きく広がり、自分が兼ねてから興味関心のあった教育とSDGsの分野で様々な活動を展開するようになりました。教育問題の改善に向けて高校生9人でNGO団体「UNO glocal education」を立ち上げに参加し早急な対応が必要だった受験問題に対してアクションを起こし、すぐに国会議員や政党への提言書提出や意見交換に結びつき、多くのことを学びました。他の活動も徐々に展開し始め、コロナのおかげで自分の好きなことが本当に大きく広がった高校生活となりました。