あゆ
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ヒストリー

出身地

宮崎県宮崎市

幼少期の暮らし、体験

幼少時代にどんなことを好きだったのか、どんな子どもだったのかという話がなかなか苦手だ、ということを大学に入ってから知りました。

小学校2年生からバスケットボールを始め、高校1年生までの8年間続けていました。あとは、公文やピアノ、体操教室と習い事ばっかりしていた幼少時代のような気がします。色々しているようで、でも全て兄弟の真似事がきっかけでした。

自分の内側から生まれるものというより、誰かがやっていて楽しそうだと思って自分の内側に引っ張ってくるのは今の私に大きく影響していると思います。

中学・高校時代

宮崎県立宮崎大宮高等学校 2018年卒業

中学校は家から近い公立中学校を選びました。

2人いる兄はその中学校に通っていました。ただ、姉はその中学校の給食が美味しくないからという理由で私立中学校を選び、中学校受験をして入学しました。末っ子の私は、公立中学校と私立中学校、それぞれに通う兄弟を見て考えました。勉強することも好きだったし、塾にも通っていたので、受験を薦められる一方で小学校から続けていたバスケットを中学校でも同じメンバーでプレーしたいという思いで悩みました。結局、私立の学校を受験し合格もしましたが、公立中学校を選びました。その時の私は、自分が何をしたいかというより誰といたいかというのが大事だったようです。

高校は宮崎大宮高校文科情報科(以下文情と書きます)を選びました。

 この高校を選んだ理由は、姉が通っていて楽しそうだったからというのが一番大きかったです。姉とは歳が3つ離れていて、私が中学校に入学したタイミングで姉は高校に入学しました。姉が話す高校の様子がとても楽しそうでした。個性的なクラスメートがいたり、学校の行事に一生懸命取り組んだり、学科独自の探究学習があったり、私にはキラキラして見えて、中学校1年生の時から文情だけを目指していた気がします。

 無事、文情に合格することができて、ぶんじょりあん(文情生)になることができました。

中学時代は勉強において、学校でも順位の高い人が集まる文情。確かに定期テストでは学年で60番くらいでした。母には「100位くらいでも落ち込まないのよ〜」と言われていたのでそんなに気になりませんでしたし、それよりも毎日の英語の小テストの勉強の方が必死でした。自分が周りと比べてそんなにすごい人ではないことを知ったのは勉強以外にもありました。それは個性です。勉強ができる以外にも、素数を愛する人、政治についての知識がすごい人、自分大好きな女の子、言葉にできないのですがみんな個性が強い。高校1年生の時にちょっとした小論文をかく課題があって、「文科情報科における自信消失症候群」みたいなことを書きました。この人はこういう得意がある、これといったらあの人だよね。そんな会話が繰り出される中で、自然に「私には何もない」ということを感じていました。ただ、私が文情というコミュニティの中で素晴らしいなと思うのは、その個性でマウントを取らないこと。「僕はこれが好き、あなたはこれが好き。それでいいよね。」という雰囲気が私を優しく包んでくれていたような気がします。この経験があるおかげで、ちょっとやそっと個性的な人や我が強い人を前にしても平気でいられます。自分と違うことに恐怖を感じることが少ないと思います。

 幼少時代から高校を選択するまで兄弟の真似事だったという話をしましたが、高校時代に自分の意思で行動を選択する大きな出来事がありました。それは部活動を辞めたことです。高校入学当時はバスケットボール部に入部、学校でも厳しい部活ランキング3位以内には入る部活動でした。学科がSGHという文科省の指定校になっていたので、課外活動のような部分で海外に研修に行ったり、大学との関わりで勉強する活動などがありました。それ以外にも、学校行事に力を入れる学科だったため合唱コンクールや百人一首大会など放課後や休日を使って、勝利を目指すような文化もありました。ただ、私は部活動が厳しかったため、そういう行事にはなかなか参加できず、海外研修に行く同級生を横目でとてもいいな、と思っていました。1年間ほど部活動を続けてみた時、自分の中で「自分は何がしたくてこの高校に来たんだろう」という思いがどんどん大きくなり、心と体の分離が苦しく、高校を休むようになりました。ちょうどSMAPが解散のニュースがあったので、数学の先生から「佐藤、SMAPも悩むなよって言ってたぞ」と声をかけられ教室で涙を流したこともありました、懐かしい。結局、親や部顧問、担任の先生と相談を重ね部活動を辞めました。部活動の仲間は引き止めてくれたものの、最後は私の意志を応援してくれるいい人たちだったので、私は人に恵まれたなと心から思っています。

部活動を辞めてからというもの、学科の探究活動や海外研修など興味のあることには全て手を出しました。単純に時間に余裕ができたというのもありますが、部活動を辞めたときに仲間が応援してくれたことへの責任もありました。みんなが体育館できつい練習をしているのを知っていたから頑張ることができました。何かやりたいことをやる、つまり自分の欲を優先させるとき、何かを捨てなければいけないことを学びました。捨てた後に残るものは、捨てた分の重さがあります。そうやって研ぎ澄ませて何かやりたいことはできるっていうのは、エネルギーの量が大きい。そんな感じでした。

 


大学・専門学校時代

広島大学

※何故か口語体ではなくなります。

大学1年生

 大学1年生の目標:「フッ軽であること」「超優しい人になる」

 語彙力が想像を絶するほど乏しかったらしい。人の話を聞いていても、黙るか「すごい」か「むずい」しか言っていなかった。思考の整理が苦手だったため、悩みはすぐ友人に相談していたが、大体「優先順位がついてないから」と言われて泣いていた。高校までの経験などを通して「行動はしているが、あまりそれが積み重なっている感じはない」と言ったところ「それは思考をしていないから」だと年上の人に言われ、この人怖いと思っていた。関西のリーダーシップ合宿にてメンターの方に「何でそんなにチキってんだよ」と言われ泣く。団体の立ち上げに関わるも、周りの言語化能力のレベルに劣等感を感じまくる。

大学1年生のときに衝撃を受けた出来事をざっと書いてみました。学生団体mahoLabo.の立ち上げに運良く携わることができて、発起人の先輩にはよく育ててもらったとつくづく思う。自分がやったことのないことでも「やってみて」と言われ、時に病み、音信不通になるなど迷惑をかけながらも面倒を見てもらっていた。大学1年生ではじめてやったことは、ミーティングのファシリテーション、団体の立ち上げ、メディアの立ち上げ、ペルソナを考える、逆算的に物事を考える、何かを広報するということを考える、取材をする、取材したことを文字にする、団体のビジョンを言葉で話せるようになる、とかかな。

メンバーのことが好きだったので、話せるようになりたいと言語化の練習を頑張っていた気がする。(外国人と恋愛するといい的なあれみたい。)人の話を聞いて、テーマをもらい、自分の頭で考えて、少しずつ言葉にする。このころからTwitterの文章が長文になった。

記事を書くというのもあって、言葉の練習は私にとってとても大事だった。でも、文章が好きでやっていたというより、初めて記事を書いて、その記事が出来上がって取材相手に呼んでもらい、「ありがとうございます」と言われたあの瞬間で、記事を作るということにハマったのかもしれない。

 学生団体での活動だけではなく、アカペラサークルやゆるいバスケサークルにも入り、学科の行事にも積極的に参加する。いろんな場所があることは私にとって、集中を分散させるために大事だし、単純に友達が好きだ。

 そんな風な大学1年生。とった単位数は30もなかった気がする。。。

大学2年生

大学2年生の目標: 「感情と仲良くなる」「手の届く範囲で人を大切にする」


(大学1年生を気合い入れて書きすぎたので、ちょっと休憩します。)

職歴

特になし。