JUKEY
フォロー コンタクト

ヒストリー

出身地

大阪府

幼少期の暮らし、体験

小学校2年生の夏にクラスメイトに勧誘されて軟式野球部に入部。しかし当時の自分の性格は野球部に見合わず内気で口数の少ない性格であったため、気が強く、発言力の強い部員などからいじられる対象になってしまった。このいじりは校内での一種のいじめにまで発展し、あることがきっかけで親に発覚した。このままではいけないと父親が自分にかけた言葉が「野球が上手くなればいじめはなくなる」だった。自分はその言葉に希望を見いだし、絶対にこの状況を抜け出したいの一心で、父親による厳しい野球特訓に泣きながらも食らいついていった。その結果、4年生の頃には4番打者になるまで上達した。さらに自分に自信がついたのか、口数も増え友達が増え始めたのもこのころだった。

中学・高校時代

大阪府立大手前高等学校 2019年卒業
小中学校時代に野球を8年間も続けていたので、高校では新しいスポーツに挑戦したいと思い、自分の野球経験が活かせる部活動を探した結果、バレーボール部に入部することを決意した。高校2年生の春までは順調に上達していったが、過度な練習による左足の疲労骨折と右膝の故障により、2か月ほどスタメンを離脱した。自分の離脱期間に周りはどんどん成長し、完治する頃には既にスタメンはほぼ固定されていた。自分はスタメンを取り返そうと懸命に練習したが、膝の故障が再発してしまい、激しい練習を断念せざるを得なかった。そんな中で自分はスタメンになってチームを勝利に導く以外にもチームに貢献できる方法があるのではないかと考え、サーブをチームの誰よりも上手くなって、ピンチサーバーとしてチームに貢献しようと考えた。思い切りジャンプができない分、人一倍サーブの練習をし続けた。合宿の時もチームメイトが休憩している間でも夜の22時までサーブ練習に打ち込んだ。その練習の成果もあってか、「お前のサーブは試合の流れを変えてくれる」と仲間に言われるほどのサーブを打てるようになるまでに上達することができた。私はこの言葉を聞いて、自分の活躍できる場所を模索し続け、それに向かって努力し続けたことを

大学・専門学校時代

新しいことにたくさん触れようと臨んだ大学生活も開始1年目早々、コロナウイルスの流行により制限のある生活を強いられた。このままじゃいけないと思い、オンラインで活動しているサークルを探した。その結果、京都の学生約30人で構成されるイベント企画団体に入会することを決意した。その団体には2年間在籍し、2つのイベントをリーダーとして企画した。このイベントの企画を通じて、世の中にはどのような需要があるのか、集客の難しさ、イベント企画は準備が命であることなど様々なことを学ぶことができた。
これに加えて、1年生の冬に150人規模のバレーボールサークルに入会し、同期の推薦により2年生次にサークル代表に就任。コロナ禍で新歓行事が制限される中、どのようにして新入生を集めるか、コロナ禍でのサークル運営方針を固めることの難しさ、組織メンバーのモチベーション維持の方法など、さまざまなことで苦労をしました。